とり》まん中に据えておいて、果てしなくそのまわりを包もうと静かに静かに近づきつつある。葉子は少しもそんな事を欲しないのに、葉子の心持ちには頓着《とんじゃく》なく、休む事なくとどまる事なく、悠々《ゆうゆう》閑々として近づいて来る。葉子は恐ろしさにおびえて声も得《え》上げなかった。そしてただそこからのがれ出たい一心に心ばかりがあせりにあせった。
もうだめだ、力が尽き切ったと、観念しようとした時、しかし、その奇怪な死は、すうっ[#「すうっ」に傍点]と朝霧が晴れるように、葉子の周囲から消えうせてしまった。見た所、そこには何一つ変わった事もなければ変わった物もない。ただ夏の夕《ゆうべ》が涼しく夜につながろうとしているばかりだった。葉子はきょとん[#「きょとん」に傍点]として庇《ひさし》の下に水々しく漂う月を見やった。
ただ不思議な変化の起こったのは心ばかりだった。荒磯《あらいそ》に波また波が千変万化して追いかぶさって来ては激しく打ちくだけて、まっ白な飛沫《ひまつ》を空高く突き上げるように、これといって取り留めのない執着や、憤りや、悲しみや、恨みやが蛛手《くもで》によれ合って、それが自分の周囲の人たちと結び付いて、わけもなく葉子の心をかきむしっていたのに、その夕方の不思議な経験のあとでは、一筋の透明なさびしさだけが秋の水のように果てしもなく流れているばかりだった。不思議な事には寝入っても忘れきれないほどな頭脳の激痛も痕《あと》なくなっていた。
神がかりにあった人が神から見放された時のように、葉子は深い肉体の疲労を感じて、寝床の上に打ち伏さってしまった。そうやっていると自分の過去や現在が手に取るようにはっきり[#「はっきり」に傍点]考えられ出した。そして冷ややかな悔恨が泉のようにわき出した。
「間違っていた……こう世の中を歩いて来るんじゃなかった。しかしそれはだれの罪だ。わからない。しかしとにかく自分には後悔がある。できるだけ、生きてるうちにそれを償っておかなければならない」
内田の顔がふと葉子には思い出された。あの厳格なキリストの教師ははたして葉子の所に尋ねて来てくれるかどうかわからない。そう思いながらも葉子はもう一度内田にあって話をしたい心持ちを止める事ができなかった。
葉子は枕《まくら》もとのベルを押してつやを呼び寄せた。そして手文庫の中から洋紙でとじた手帳を取り出さして、それに毛筆で葉子のいう事を書き取らした。
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「木村さんに。
「わたしはあなたを詐《いつわ》っておりました。わたしはこれから他の男に嫁入ります。あなたはわたしを忘れてくださいまし。わたしはあなたの所に行ける女ではないのです。あなたのお思い違いを充分御自分で調べてみてくださいまし。
「倉地さんに。
「わたしはあなたを死ぬまで。けれども二人《ふたり》とも間違っていた事を今はっきり[#「はっきり」に傍点]知りました。死を見てから知りました。あなたにはおわかりになりますまい。わたしは何もかも恨みはしません。あなたの奥さんはどうなさっておいでです。……わたしは一緒に泣く事ができる。
「内田のおじさんに。
「わたしは今夜になっておじさんを思い出しました。おば様によろしく。
「木部《きべ》さんに。
「一人《ひとり》の老女があなたの所に女の子を連れて参るでしょう。その子の顔を見てやってくださいまし。
「愛子と貞世に。
「愛さん、貞《さあ》ちゃん、もう一度そう呼ばしておくれ。それでたくさん。
「岡さんに。
「わたしはあなたをも怒《おこ》ってはいません。
「古藤さんに。
「お花とお手紙とをありがとう。あれからわたしは死を見ました。
七月二十一日 葉子」
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つやはこんなぽつり[#「ぽつり」に傍点]ぽつりと短い葉子の言葉を書き取りながら、時々|怪訝《けげん》な顔をして葉子を見た。葉子の口びるはさびしく震えて、目にはこぼれない程度に涙がにじみ出していた。
「もうそれでいいありがとうよ。あなただけね、こんなになってしまったわたしのそばにいてくれるのは。……それだのに、わたしはこんなに零落した姿をあなたに見られるのがつらくって、来た日は途中からほかの病院に行ってしまおうかと思ったのよ。ばかだったわね」
葉子は口ではなつかしそうに笑いながら、ほろほろと涙をこぼしてしまった。
「それをこの枕《まくら》の下に入れておいておくれ。今夜こそはわたし久しぶりで安々とした心持ちで寝られるだろうよ、あすの手術に疲れないようによく寝ておかないといけないわね。でもこんなに弱っていても手術はできるのかしらん……もう蚊帳《かや》をつっておくれ。そしてついでに寝床をもっとそ
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