っちに引っぱって行って、月の光が顔にあたるようにしてちょうだいな。戸は寝入ったら引いておくれ。……それからちょっとあなたの手をお貸し。……あなたの手は温《あたた》かい手ね。この手はいい手だわ」
 葉子は人の手というものをこんなになつかしいものに思った事はなかった。力をこめた手でそっと[#「そっと」に傍点]抱いて、いつまでもやさしくそれをなでていたかった。つやもいつか葉子の気分に引き入れられて、鼻をすするまでに涙ぐんでいた。
 葉子はやがて打ち開いた障子から蚊帳《かや》越しにうっとり[#「うっとり」に傍点]と月をながめながら考えていた。葉子の心は月の光で清められたかと見えた。倉地が自分を捨てて逃げ出すために書いた狂言が計らずその筋の嫌疑《けんぎ》を受けたのか、それとも恐ろしい売国の罪で金をすら葉子に送れぬようになったのか、それはどうでもよかった。よしんば妾《めかけ》が幾人あってもそれもどうでもよかった。ただすべてがむなしく見える中に倉地だけがただ一人《ひとり》ほんとうに生きた人のように葉子の心に住んでいた。互いを堕落させ合うような愛しかたをした、それも今はなつかしい思い出だった。木村は思えば思うほど涙ぐましい不幸な男だった。その思い入った心持ちは何事もわだかまりのなくなった葉子の胸の中を清水《しみず》のように流れて通った。多年の迫害に復讐《ふくしゅう》する時機が来たというように、岡までをそそのかして、葉子を見捨ててしまったと思われる愛子の心持ちにも葉子は同情ができた。愛子の情けに引かされて葉子を裏切った岡の気持ちはなおさらよくわかった。泣いても泣いても泣き足りないようにかわいそうなのは貞世だった。愛子はいまにきっと自分以上に恐ろしい道に踏み迷う女だと葉子は思った。その愛子のただ一人の妹として……もしも自分の命がなくなってしまった後は……そう思うにつけて葉子は内田を考えた。すべての人は何かの力で流れて行くべき先に流れて行くだろう。そしてしまいにはだれでも自分と同様に一人ぼっちになってしまうんだ。……どの人を見てもあわれまれる……葉子はそう思いふけりながら静かに静かに西に回って行く月を見入っていた。その月の輪郭がだんだんぼやけて来て、空の中に浮き漂うようになると、葉子のまつ毛の一つ一つにも月の光が宿った。涙が目じりからあふれて両方のこめかみの所をくすぐるようにする[#「する」に傍点]すると流れ下った。口の中は粘液で粘った。許すべき何人《なんびと》もない。許さるべき何事もない。ただあるがまま……ただ一抹《いちまつ》の清い悲しい静けさ。葉子の目はひとりでに閉じて行った。整った呼吸が軽く小鼻を震わして流れた。
 つやが戸をたてにそーっ[#「そーっ」に傍点]とその部屋《へや》にはいった時には、葉子は病気を忘れ果てたもののように、がたぴし[#「がたぴし」に傍点]と戸を締める音にも目ざめずに安らけく寝入っていた。

    四八

 その翌朝手術台にのぼろうとした葉子は昨夜の葉子とは別人のようだった。激しい呼鈴《よびりん》の音で呼ばれてつやが病室に来た時には、葉子は寝床から起き上がって、したため終わった手紙の状袋を封じている所だったが、それをつやに渡そうとする瞬間にいきなり[#「いきなり」に傍点]いやになって、口びるをぶるぶる震わせながらつやの見ている前でそれをずた[#「ずた」に傍点]ずたに裂いてしまった。それは愛子にあてた手紙だったのだ。きょうは手術を受けるから九時までにぜひとも立ち会いに来るようにとしたためたのだった。いくら気丈夫でも腹を立ち割る恐ろしい手術を年若い少女が見ていられないくらいは知っていながら、葉子は何がなしに愛子にそれを見せつけてやりたくなったのだ。自分の美しい肉体がむごたらしく傷つけられて、そこから静脈《じょうみゃく》を流れているどす[#「どす」に傍点]黒い血が流れ出る、それを愛子が見ているうちに気が遠くなって、そのままそこに打ち倒れる、そんな事になったらどれほど快いだろうと葉子は思った。幾度来てくれろと電話をかけても、なんとか口実をつけてこのごろ見も返らなくなった愛子に、これだけの復讐《ふくしゅう》をしてやるのでも少しは胸がすく、そう葉子は思ったのだ。しかしその手紙をつやに渡そうとする段になると、葉子には思いもかけぬ躊躇《ちゅうちょ》が来た。もし手術中にはしたな[#「はしたな」に傍点]い囈言《うわごと》でもいってそれを愛子に聞かれたら。あの冷刻《れいこく》な愛子が面《おもて》もそむけずにじっと姉の肉体が切りさいなまれるのを見続けながら、心の中で存分に復讐心《ふくしゅうしん》を満足するような事があったら。こんな手紙を受け取ってもてんで[#「てんで」に傍点]相手にしないで愛子が来なかったら……そんな事を予想すると葉子は手紙を
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