しかし倉地には二人《ふたり》ほどの外妾《がいしょう》があると付け加えて書いてあるのを見て、ほんとうにあなたをお気の毒に思いました。この手紙を皮肉に取らないでください。僕《ぼく》には皮肉はいえません。
「僕はあなたが失望なさらないように祈ります。僕は来週の月曜日から習志野《ならしの》のほうに演習に行きます。木村からのたよりでは、彼は窮迫の絶頂にいるようです。けれども木村はそこを突き抜けるでしょう。
「花を持って来てみました。お大事に。
古 藤 生」
[#ここで字下げ終わり]
つやはつかえつかえそれだけを読み終わった。始終古藤をはるか年下な子供のように思っている葉子は、一種|侮蔑《ぶべつ》するような無感情をもってそれを聞いた。倉地が外妾《がいしょう》を二人《ふたり》持ってるといううわさは初耳ではあるけれども、それは新聞の記事であってみればあて[#「あて」に傍点]にはならない。その外妾二人というのが、美人屋敷と評判のあったそこに住む自分と愛子ぐらいの事を想像して、記者ならばいいそうな事だ。ただそう軽くばかり思ってしまった。
つやがその花束をガラスびんにいけて、なんにも飾ってない床の上に置いて行ったあと、葉子は前同様にハンケチを顔にあてて、機械的に働く心の影と戦おうとしていた。
その時突然死が――死の問題ではなく――死がはっきり[#「はっきり」に傍点]と葉子の心に立ち現われた。もし手術の結果、子宮底に穿孔《せんこう》ができるようになって腹膜炎を起こしたら、命の助かるべき見込みはないのだ。そんな事をふと思い起こした。部屋《へや》の姿も自分の心もどこといって特別に変わったわけではなかったけれども、どことなく葉子の周囲には確かに死の影がさまよっているのをしっかりと感じないではいられなくなった。それは葉子が生まれてから夢にも経験しない事だった。これまで葉子が死の問題を考えた時には、どうして死を招き寄せようかという事ばかりだった。しかし今は死のほうがそろそろと近寄って来ているのだ。
月はだんだん光を増して行って、電灯に灯《ひ》もともっていた。目の先に見える屋根の間からは、炊煙だか、蚊遣《かや》り火《び》だかがうっすらと水のように澄みわたった空に消えて行く。履《は》き物《もの》、車馬の類、汽笛の音、うるさいほどの人々の話し声、そういうものは葉子の部屋をいつものとおり取り巻きながら、そして部屋の中はとにかく整頓《せいとん》して灯《ひ》がともっていて、少しの不思議もないのに、どことも知れずそこには死がはい寄って来ていた。
葉子はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として、血の代わりに心臓の中に氷の水を瀉《そそ》ぎこまれたように思った。死のうとする時はとうとう葉子には来ないで、思いもかけず死ぬ時が来たんだ。今までとめどなく流していた涙は、近づくあらしの前のそよ風のようにどこともなく姿をひそめてしまっていた。葉子はあわてふためいて、大きく目を見開き、鋭く耳をそびやかして、そこにある物、そこにある響きを捕えて、それにすがり付きたいと思ったが、目にも耳にも何か感ぜられながら、何が何やら少しもわからなかった。ただ感ぜられるのは、心の中がわけもなくただわくわくとして、すがりつくものがあれば何にでもすがりつきたいと無性《むしょう》にあせっている、その目まぐるしい欲求だけだった。葉子は震える手で枕《まくら》をなで回したり、シーツをつまみ上げてじっ[#「じっ」に傍点]と握り締めてみたりした。冷たい油汗が手のひらににじみ出るばかりで、握ったものは何の力にもならない事を知った。その失望は形容のできないほど大きなものだった。葉子は一つの努力ごとにがっかり[#「がっかり」に傍点]して、また懸命にたよりになるもの、根のあるようなものを追い求めてみた。しかしどこをさがしてみてもすべての努力が全くむだなのを心では本能的に知っていた。
周囲の世界は少しのこだわり[#「こだわり」に傍点]もなくずるずると平気で日常の営みをしていた。看護婦が草履《ぞうり》で廊下を歩いて行く、その音一つを考えてみても、そこには明らかに生命が見いだされた。その足は確かに廊下を踏み、廊下は礎《いしずえ》に続き、礎は大地に据《す》えられていた。患者と看護婦との間に取りかわされる言葉一つにも、それを与える人と受ける人とがちゃん[#「ちゃん」に傍点]と大地の上に存在していた。しかしそれらは奇妙にも葉子とは全く無関係で没交渉だった。葉子のいる所にはどこにも底がない事を知らねばならなかった。深い谷に誤って落ち込んだ人が落ちた瞬間に感ずるあの焦躁……それが連続してやむ時なく葉子を襲うのだった。深さのわからないような暗い闇《やみ》が、葉子をただ一人《ひ
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