以来、自分のふところからもぎ放してしまって、金輪際《こんりんざい》忘れてしまおうと堅く心に契っていたその定子が……それはその場合葉子を全く惨《みじ》めにしてしまった。
 病院に着いた時も葉子は泣き続けていた。そしてその病院のすぐ手前まで来て、そこに入院しようとした事を心から後悔してしまった。こんな落魄《らくはく》したような姿をつやに見せるのが堪《た》えがたい事のように思われ出したのだ。
 暗い二階の部屋《へや》に案内されて、愛子が準備しておいた床に横になると葉子はだれに挨拶《あいさつ》もせずにただ泣き続けた。そこは運河の水のにおいが泥《どろ》臭く通《かよ》って来るような所だった。愛子は煤《すす》けた障子《しょうじ》の陰で手回りの荷物を取り出して案配《あんばい》した。口少《くちずく》なの愛子は姉を慰めるような言葉も出さなかった。外部が騒々《そうぞう》しいだけに部屋の中はなおさらひっそり[#「ひっそり」に傍点]と思われた。
 葉子はやがて静かに顔をあげて部屋の中を見た。愛子の顔色が黄色く見えるほどその日の空も部屋の中も寂《さび》れていた。少し黴《かび》を持ったようにほこりっぽくぶく[#「ぶく」に傍点]ぶくする畳の上には丸盆の上に大学病院から持って来た薬びんが乗せてあった。障子ぎわには小さな鏡台が、違い棚《だな》には手文庫と硯箱《すずりばこ》が飾られたけれども、床の間には幅物《ふくもの》一つ、花活《はない》け一つ置いてなかった。その代わりに草色の風呂敷《ふろしき》に包み込んだ衣類と黒い柄《え》のパラソルとが置いてあった。薬びんの乗せてある丸盆が、出入りの商人から到来のもので、縁《ふち》の所に剥《は》げた所ができて、表には赤い短冊《たんざく》のついた矢が的《まと》に命中している画《え》が安っぽい金で描いてあった。葉子はそれを見ると盆もあろうにと思った。それだけでもう葉子は腹が立ったり情けなくなったりした。
 「愛さんあなた御苦労でも毎日ちょっとずつは来てくれないじゃ困りますよ。貞《さあ》ちゃんの様子も聞きたいしね。……貞ちゃんも頼んだよ。熱が下がって物事がわかるようになる時にはわたしもなおって帰るだろうから……愛さん」
 いつものとおりはき[#「はき」に傍点]はきとした手答えがないので、もうぎり[#「ぎり」に傍点]ぎりして来た葉子は剣《けん》を持った声で、「愛さん」と語気強く呼びかけた。言葉をかけるとそれでも片づけものの手を置いて葉子のほうに向き直った愛子は、この時ようやく顔を上げておとなしく「はい」と返事をした。葉子の目はすかさずその顔を発矢《はっし》とむちうった。そして寝床の上に半身を肘《ひじ》にささえて起き上がった。車で揺られたために腹部は痛みを増して声をあげたいほどうずいていた。
 「あなたにきょうははっきり[#「はっきり」に傍点]聞いておきたい事があるの……あなたはよもや岡さんとひょん[#「ひょん」に傍点]な約束なんぞしてはいますまいね」
 「いゝえ」
 愛子は手もなく素直《すなお》にこう答えて目を伏せてしまった。
 「古藤さんとも?」
 「いゝえ」
 今度は顔を上げて不思議な事を問いただすというようにじっ[#「じっ」に傍点]と葉子を見つめながらこう答えた。そのタクトがあるような、ないような愛子の態度が葉子をいやが上にいらだたした。岡の場合にはどこか後ろめたくて首をたれたとも見える。古藤の場合にはわざとしら[#「しら」に傍点]を切るために大胆に顔を上げたとも取れる。またそんな意味ではなく、あまり不思議な詰問が二度まで続いたので、二度目には怪訝《けげん》に思って顔を上げたのかとも考えられる。葉子は畳みかけて倉地の事まで問い正そうとしたが、その気分はくだかれてしまった。そんな事を聞いたのが第一愚かだった。隠し立てをしようと決心した以上は、女は男よりもはるかに巧妙で大胆なのを葉子は自分で存分に知り抜いているのだ。自分から進んで内兜《うちかぶと》を見透かされたようなもどかしさ[#「もどかしさ」に傍点]はいっそう葉子の心を憤らした。
 「あなたは二人《ふたり》から何かそんな事をいわれた覚えがあるでしょう。その時あなたはなんと御返事したの」
 愛子は下を向いたまま黙っていた。葉子は図星《ずぼし》をさしたと思って嵩《かさ》にかかって行った。
 「わたしは考えがあるからあなたの口からもその事を聞いておきたいんだよ。おっしゃいな」
 「お二人ともなんにもそんな事はおっしゃりはしませんわ」
 「おっしゃらない事があるもんかね」
 憤怒《ふんぬ》に伴ってさしこんで来る痛みを憤怒と共にぐっ[#「ぐっ」に傍点]と押えつけながら葉子はわざと声を和らげた。そうして愛子の挙動を爪《つめ》の先ほども見のがすまいとした。愛子は黙ってしまった。この沈黙は愛子の隠
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