過去の一つなのだろうか……日はかんかんと赤土の上に照りつけていた。油蝉《あぶらぜみ》の声は御殿の池をめぐる鬱蒼《うっそう》たる木立ちのほうからしみ入るように聞こえていた。近い病室では軽病の患者が集まって、何かみだららしい雑談に笑い興じている声が聞こえて来た。それは実際なのか夢なのか。それらのすべては腹立たしい事なのか、哀《かな》しい事なのか、笑い捨つべき事なのか、嘆き恨まねばならぬ事なのか。……喜怒哀楽のどれか一つだけでは表わし得ない、不思議に交錯した感情が、葉子の目からとめどなく涙を誘い出した。あんな世界がこんな世界に変わってしまった。そうだ貞世が生死の境にさまよっているのはまちがいようのない事実だ。自分の健康が衰え果てたのも間違いのない出来事だ。もし毎日貞世を見舞う事ができるのならホこのままここにいるのもいい。しかし自分のからだの自由さえ今はきかなくなった。手術を受ければどうせ[#「どうせ」に傍点]当分は身動きもできないのだ。岡や愛子……そこまで来ると葉子は夢の中にいる女ではなかった。まざまざとした煩悩《ぼんのう》が勃然《ぼつぜん》としてその歯がみした物すごい鎌首《かまくび》をきっ[#「きっ」に傍点]ともたげるのだった。それもよし。近くいても看視のきかないのを利用したくば思うさま利用するがいい。倉地と三人で勝手な陰謀を企てるがいい。どうせ看視のきかないものなら、自分は貞世のためにどこか第二流か第三流の病院に移ろう。そしていくらでも貞世のほうを安楽にしてやろう。葉子は貞世から離れるといちずにそのあわれさが身にしみてこう思った。
 葉子はふと[#「ふと」に傍点]つやの事を思い出した。つやは看護婦になって京橋あたりの病院にいると双鶴館《そうかくかん》からいって来たのを思い出した。愛子を呼び寄せて電話でさがさせようと決心した。

    四六

 まっ暗な廊下が古ぼけた縁側になったり、縁側の突き当たりに階子段《はしごだん》があったり、日当たりのいい中《ちゅう》二階のような部屋《へや》があったり、納戸《なんど》と思われる暗い部屋に屋根を打ち抜いてガラスをはめて光線が引いてあったりするような、いわばその界隈《かいわい》にたくさんある待合《まちあい》の建て物に手を入れて使っているような病院だった。つやは加治木《かじき》病院というその病院の看護婦になっていた。
 長く天気が続いて、そのあとに激しい南風が吹いて、東京の市街はほこりまぶれになって、空も、家屋も、樹木も、黄粉《きなこ》でまぶしたようになったあげく、気持ち悪く蒸し蒸しと膚を汗ばませるような雨に変わったある日の朝、葉子はわずかばかりな荷物を持って人力車で加治木病院に送られた。後ろの車には愛子が荷物の一部分を持って乗っていた。須田町《すだちょう》に出た時、愛子の車は日本橋の通りをまっすぐに一足《ひとあし》先に病院に行かして、葉子は外濠《そとぼり》に沿うた道を日本銀行からしばらく行く釘店《くぎだな》の横丁《よこちょう》に曲がらせた。自分の住んでいた家を他所《よそ》ながら見て通りたい心持ちになっていたからだった。前幌《まえほろ》のすきまからのぞくのだったけれども、一年の後にもそこにはさして変わった様子は見えなかった。自分のいた家の前でちょっと車を止まらして中をのぞいて見た。門札には叔父《おじ》の名はなくなって、知らない他人の姓名が掲げられていた。それでもその人は医者だと見えて、父の時分からの永寿堂《えいじゅどう》病院という看板は相変わらず玄関の※[#「※」は「きへんに眉」、283−6]《なげし》に見えていた。長三洲《ちょうさんしゅう》と署名してあるその字も葉子には親しみの深いものだった。葉子がアメリカに出発した朝も九月ではあったがやはりその日のようにじめじめと雨の降る日だったのを思い出した。愛子が櫛《くし》を折って急に泣き出したのも、貞世が怒《おこ》ったような顔をして目に涙をいっぱいためたまま見送っていたのもその玄関を見ると描くように思い出された。
 「もういい早くやっておくれ」
 そう葉子は車の上から涙声でいった。車は梶棒《かじぼう》を向け換えられて、また雨の中を小さく揺れながら日本橋のほうに走り出した。葉子は不思議にそこに一緒に住んでいた叔父叔母《おじおば》の事を泣きながら思いやった。あの人たちは今どこにどうしているだろう。あの白痴の子ももうずいぶん大きくなったろう。でも渡米を企ててからまだ一年とはたっていないんだ。へえ、そんな短い間にこれほどの変化が……葉子は自分で自分にあきれるようにそれを思いやった。それではあの白痴の子も思ったほど大きくなっているわけではあるまい。葉子はその子の事を思うとどうしたわけか定子の事を胸が痛むほどきびしくおもい出してしまった。鎌倉《かまくら》に行った時
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