れ家《が》だった。そうなるとさすがの葉子もこの妹をどう取り扱う術《すべ》もなかった。岡なり古藤なりが告白をしているのなら、葉子がこの次にいい出す言葉で様子は知れる。この場合うっかり[#「うっかり」に傍点]葉子の口車には乗られないと愛子は思って沈黙を守っているのかもしれない。岡なり古藤なりから何か聞いているのなら、葉子はそれを十倍も二十倍もの強さにして使いこなす術《すべ》を知っているのだけれども、あいにくその備えはしていなかった。愛子は確かに自分をあなどり出していると葉子は思わないではいられなかった。寄ってたかって大きな詐偽の網を造って、その中に自分を押しこめて、周囲からながめながらおもしろそうに笑っている。岡だろうが古藤だろうが何があて[#「あて」に傍点]になるものか。……葉子は手傷を負った猪《いのしし》のように一直線に荒れて行くよりしかたがなくなった。
 「さあお言い愛さん、お前さんが黙ってしまうのは悪い癖ですよ。ねえさんを甘くお見でないよ。……お前さんほんとうに黙ってるつもりかい……そうじゃないでしょう、あればあるなければないで、はっきり[#「はっきり」に傍点]わかるように話をしてくれるんだろうね……愛さん……あなたは心からわたしを見くびってかかるんだね」
 「そうじゃありません」
 あまり葉子の言葉が激して来るので、愛子は少しおそれを感じたらしくあわててこういって言葉でささえようとした。
 「もっとこっち[#「こっち」に傍点]においで」
 愛子は動かなかった。葉子の愛子に対する憎悪《ぞうお》は極点に達した。葉子は腹部の痛みも忘れて、寝床から跳《おど》り上がった。そうしていきなり[#「いきなり」に傍点]愛子のたぶさ[#「たぶさ」に傍点]をつかもうとした。
 愛子はふだんの冷静に似ず、葉子の発作《ほっさ》を見て取ると、敏捷《びんしょう》に葉子の手もとをすり抜けて身をかわした。葉子はふらふらとよろけて一方の手を障子紙に突っ込みながら、それでも倒れるはずみ[#「はずみ」に傍点]に愛子の袖先《そでさき》をつかんだ。葉子は倒れながらそれをたぐり寄せた。醜い姉妹の争闘が、泣き、わめき、叫び立てる声の中に演ぜられた。愛子は顔や手に掻《か》き傷を受け、髪をおどろに乱しながらも、ようやく葉子の手を振り放して廊下に飛び出した。葉子はよろよろとした足取りでそのあとを追ったが、とても愛子の敏捷《びんしょう》さにはかなわなかった。そして階子段《はしごだん》の降り口の所でつやに食い止められてしまった。葉子はつやの肩に身を投げかけながらおいおいと声を立てて子供のように泣き沈んでしまった。
 幾時間かの人事不省の後に意識がはっきり[#「はっきり」に傍点]してみると、葉子は愛子とのいきさつ[#「いきさつ」に傍点]をただ悪夢のように思い出すばかりだった。しかもそれは事実に違いない。枕《まくら》もとの障子には葉子の手のさし込まれた孔《あな》が、大きく破れたまま残っている。入院のその日から、葉子の名は口さがない婦人患者の口の端《は》にうるさくのぼっているに違いない。それを思うと一時でもそこにじっ[#「じっ」に傍点]としているのが、堪《た》えられない事だった。葉子はすぐほかの病院に移ろうと思ってつやにいいつけた。しかしつやはどうしてもそれを承知しなかった。自分が身に引き受けて看護するから、ぜひともこの病院で手術を受けてもらいたいとつやはいい張った。葉子から暇を出されながら、妙に葉子に心を引きつけられているらしい姿を見ると、この場合葉子はつやにしみじみとした愛を感じた。清潔な血が細いしなやかな血管を滞りなく流れ回っているような、すべすべと健康らしい、浅黒いつやの皮膚は何よりも葉子には愛らしかった。始終吹き出物でもしそうな、膿《うみ》っぽい女を葉子は何よりも呪《のろ》わしいものに思っていた。葉子はつやのまめやか[#「まめやか」に傍点]な心と言葉に引かされてそこにい残る事にした。
 これだけ貞世から隔たると葉子は始めて少し気のゆるむのを覚えて、腹部の痛みで突然目をさますほかにはたわいなく眠るような事もあった。しかしなんといってもいちばん心にかかるものは貞世だった。ささくれて、赤くかわいた口びるからもれ出るあの囈言《うわごと》……それがどうかすると近々《ちかぢか》と耳に聞こえたり、ぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と目を開いたりするその顔が浮き出して見えたりした。そればかりではない、葉子の五官は非常に敏捷《びんしょう》になって、おまけにイリュウジョンやハルシネーションを絶えず見たり聞いたりするようになってしまった。倉地なんぞはすぐそばにすわっているなと思って、苦しさに目をつぶりながら手を延ばして畳の上を探ってみる事などもあった。そんなにはっきり[#「はっきり」に傍点]見えた
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