次の瞬間にはひとりで[#「ひとりで」に傍点]に倒れてこわれてしまいそうに見えた。物の影になって薄暗い部分は見る見る部屋じゅうに広がって、すべてを冷たく暗く包み終わるかとも疑われた。死の影は最も濃く貞世の目と口のまわりに集まっていた。そこには死が蛆《うじ》のようににょろ[#「にょろ」に傍点]にょろとうごめいているのが見えた。それよりも……それよりもその影はそろそろと葉子を目がけて四方の壁から集まり近づこうとひしめいているのだ。葉子はほとんどその死の姿を見るように思った。頭の中がシーン[#「シーン」に傍点]と冷え通って冴《さ》えきった寒さがぞく[#「ぞく」に傍点]ぞくと四|肢《し》を震わした。
 その時宿直室の掛け時計が遠くのほうで一時を打った。
 もしこの音を聞かなかったら、葉子は恐ろしさのあまり自分のほうから宿直室へ駆け込んで行ったかもしれなかった。葉子はおびえながら耳をそばだてた。宿直室のほうから看護婦が草履《ぞうり》をばたばたと引きずって来る音が聞こえた。葉子はほっ[#「ほっ」に傍点]と息気《いき》をついた。そしてあわてるように身を動かして、貞世の頭の氷嚢《ひょうのう》の溶け具合をしらべて見たり、掻巻《かいまき》を整えてやったりした。海の底に一つ沈んでぎらっ[#「ぎらっ」に傍点]と光る貝殻《かいがら》のように、床の上で影の中に物すごく横たわっている鏡を取り上げてふところに入れた。そうして一室一室と近づいて来る看護婦の足音に耳を澄ましながらまた考え続けた。
 今度は山内《さんない》の家のありさまがさながらまざまざと目に見るように想像された。岡が夜ふけにそこを訪れた時には倉地が確かにいたに違いない。そしていつものとおり一種の粘り強さをもって葉子の言伝《ことづ》てを取り次ぐ岡に対して、激しい言葉でその理不尽な狂気じみた葉子の出来心をののしったに違いない。倉地と岡との間には暗々裡《あんあんり》に愛子に対する心の争闘が行なわれたろう。岡の差し出す紙幣の束を怒りに任せて畳の上にたたきつける倉地の威丈高《いたけだか》な様子、少女にはあり得ないほどの冷静さで他人事《ひとごと》のように二人《ふたり》の間のいきさつ[#「いきさつ」に傍点]を伏し目ながらに見守る愛子の一種の毒々しい妖艶《ようえん》さ。そういう姿がさながら目の前に浮かんで見えた。ふだんの葉子だったらその想像は葉子をその場にいるように興奮させていたであろう。けれども死の恐怖に激しく襲われた葉子はなんともいえない嫌悪《けんお》の情をもってのほかにはその場面を想像する事ができなかった。なんというあさましい人の心だろう。結局は何もかも滅びて行くのに、永遠な灰色の沈黙の中にくずれ込んでしまうのに、目前の貪婪《どんらん》に心火の限りを燃やして、餓鬼《がき》同様に命をかみ合うとはなんというあさましい心だろう。しかもその醜い争いの種子《たね》をまいたのは葉子自身なのだ。そう思うと葉子は自分の心と肉体とがさながら蛆虫《うじむし》のようにきたなく見えた。……何のために今まであってないような妄執《もうしゅう》に苦しみ抜いてそれを生命そのもののように大事に考え抜いていた事か。それはまるで貞世が始終見ているらしい悪夢の一つよりもさらにはかないものではないか。……こうなると倉地さえが縁もゆかりもないもののように遠く考えられ出した。葉子はすべてのもののむなしさにあきれたような目をあげて今さららしく部屋《へや》の中をながめ回した。なんの飾りもない、修道院の内部のような裸な室内がかえってすがすがしく見えた。岡の残した貞世の枕《まくら》もとの花束だけが、そしておそらくは(自分では見えないけれども)これほどの忙しさの間にも自分を粉飾するのを忘れずにいる葉子自身がいかにも浮薄なたよりないものだった。葉子はこうした心になると、熱に浮かされながら一歩一歩なんの心のわだかまりもなく死に近づいて行く貞世の顔が神々《こうごう》しいものにさえ見えた。葉子は祈るようなわび驍謔、な心でしみじみと貞世を見入った。
 やがて看護婦が貞世の部屋《へや》にはいって来た。形式一ぺんのお辞儀を睡《ねむ》そうにして、寝台のそばに近寄ると、無頓着《むとんじゃく》なふうに葉子が入れておいた検温器を出して灯《ひ》にすかして見てから、胸の氷嚢《ひょうのう》を取りかえにかかった。葉子は自分|一人《ひとり》の手でそんな事をしてやりたいような愛着と神聖さとを貞世に感じながら看護婦を手伝った。
 「貞《さあ》ちゃん……さ、氷嚢を取りかえますからね……」
 とやさしくいうと、囈言《うわごと》をいい続けていながらやはり貞世はそれまで眠っていたらしく、痛々《いたいた》しいまで大きくなった目を開いて、まじ[#「まじ」に傍点]まじと意外な人でも見るように葉子を見るのだった。
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