すよ。汽車の音でもなんでもないんだから、心配せずにお休み……どうして貞世はこんなに怖《こわ》い事ばかりいうようになってしまったんでしょう。夜中などに一人で起きていて囈言《うわごと》を聞くとぞーっとするほど気味が悪くなりますのよ。あなたはどうぞもうお引き取りくださいまし。わたし車屋をやりますから……」
「車屋をおやりになるくらいならわたし行きます」
「でもあなたが倉地さんに何とか思われなさるようじゃお気の毒ですもの」
「わたし、倉地さんなんぞをはばかっていっているのではありません」
「それはよくわかっていますわ。でもわたしとしてはそんな結果も考えてみてからお頼みするんでしたのに……」
こういう押し問答の末に岡はとうとう愛子の迎えに行く事になってしまった。倉地がその夜はきっと愛子の所にいるに違いないと思った葉子は、病院に泊まるものと高《たか》をくくっていた岡が突然|真夜中《まよなか》に訪れて来たので倉地もさすがにあわてずにはいられまい。それだけの狼狽《ろうばい》をさせるにしても快い事だと思っていた。葉子は宿直|部屋《べや》に行って、しだらなく睡入《ねい》った当番の看護婦を呼び起こして人力車《じんりきしゃ》を頼ました。
岡は思い入った様子でそっ[#「そっ」に傍点]と貞世の病室を出た。出る時に岡は持って来たパラフィン紙に包んである包みを開くと美しい花束だった。岡はそれをそっ[#「そっ」に傍点]と貞世の枕《まくら》もとにおいて出て行った。
しばらくすると、しとしとと降る雨の中を、岡を乗せた人力車が走り去る音がかすかに聞こえて、やがて遠くに消えてしまった。看護婦が激しく玄関の戸締まりする音が響いて、そのあとはひっそりと夜がふけた。遠くの部屋でディフテリヤにかかっている子供の泣く声が間遠《まどお》に聞こえるほかには、音という音は絶え果てていた。
葉子はただ一人《ひとり》いたずらに興奮して狂うような自分を見いだした。不眠で過ごした夜が三日も四日も続いているのにかかわらず、睡気《ねむけ》というものは少しも襲って来なかった。重石《おもし》をつり下げたような腰部の鈍痛ばかりでなく、脚部は抜けるようにだるく冷え、肩は動かすたびごとにめり[#「めり」に傍点]めり音がするかと思うほど固く凝り、頭の心《しん》は絶え間なくぎり[#「ぎり」に傍点]ぎりと痛んで、そこからやりどころのない悲哀と疳癪《かんしゃく》とがこんこんとわいて出た。もう鏡は見まいと思うほど顔はげっそり[#「げっそり」に傍点]と肉がこけて、目のまわりの青黒い暈《かさ》は、さらぬだに大きい目をことさらにぎら[#「ぎら」に傍点]ぎらと大きく見せた。鏡を見まいと思いながら、葉子はおりあるごとに帯の間から懐中鏡を出して自分の顔を見つめないではいられなかった。
葉子は貞世の寝息をうかがっていつものように鏡を取り出した。そして顔を少し電灯のほうに振り向けてじっと自分を映して見た。おびただしい毎日の抜け毛で額ぎわの著しく透いてしまったのが第一に気になった。少し振り仰いで顔を映すと頬《ほお》のこけたのがさほどに目立たないけれども、顎《あご》を引いて下俯《したうつむ》きになると、口と耳との間には縦に大きな溝《みぞ》のような凹《くぼ》みができて、下顎骨《かがくこつ》[#底本ではルビが「かがつこつ」]が目立っていかめしく現われ出ていた。長く見つめているうちにはだんだん慣れて来て、自分の意識でしいて矯正《きょうせい》するために、やせた顔もさほどとは思われなくなり出すが、ふと鏡に向かった瞬間には、これが葉子葉子と人々の目をそばだたした自分かと思うほど醜かった。そうして鏡に向かっているうちに、葉子はその投影を自分以外のある他人の顔ではないかと疑い出した。自分の顔より映るはずがない。それだのにそこに映っているのは確かにだれか見も知らぬ人の顔だ。苦痛にしいたげられ、悪意にゆがめられ、煩悩《ぼんのう》のために支離滅裂になった亡者《もうじゃ》の顔……葉子は背筋に一時に氷をあてられたようになって、身ぶるいしながら思わず鏡を手から落とした。
金属の床に触れる音が雷のように響いた。葉子はあわてて貞世を見やった。貞世はまっ赤《か》に充血して熱のこもった目をまんじり[#「まんじり」に傍点]と開いて、さも不思議そうに中有《ちゅうう》を見やっていた。
「愛ねえさん……遠くでピストルの音がしたようよ」
はっきり[#「はっきり」に傍点]した声でこういったので、葉子が顔を近寄せて何かいおうとすると昏々《こんこん》としてたわいもなくまた眠りにおちいるのだった。貞世の眠るのと共に、なんともいえない無気味な死の脅かしが卒然として葉子を襲った。部屋《へや》の中にはそこらじゅうに死の影が満ち満ちていた。目の前の氷水を入れたコップ一つも
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