けれども、今まで秘密にしていた事をなんとかいわれやしないかとの気づかいのためか、それとも倉地が秘密を持つのならこっちも秘密を持って見せるぞという腹になりたいためか、自分にもはっきり[#「はっきり」に傍点]とはわからない衝動に駆られて、何という事なしに、
「いゝえ」
と答えてしまった。
「来《こ》ない?……そりゃお前いいかげんじゃろう」
と倉地はたしなめるような調子になった。
「いゝえ」
葉子は頑固《がんこ》にいい張ってそっぽ[#「そっぽ」に傍点]を向いてしまった。
「おいその団扇《うちわ》を貸してくれ、あおがずにいては蚊でたまらん……来ない事があるものか」
「だれからそんなばかな事お聞きになって?」
「だれからでもいいわさ」
葉子は倉地がまた歯に衣《きぬ》着せた物の言いかたをすると思うとかっ[#「かっ」に傍点]と腹が立って返辞もしなかった。
「葉ちゃん。おれは女のきげんを取るために生まれて来はせんぞ。いいかげんをいって甘く見くびるとよくはないぜ」
葉子はそれでも返事をしなかった。倉地は葉子の拗《す》ねかたに不快を催したらしかった。
「おい葉子! 正井は来《く》るのか来《こ》んのか」
正井の来る来ないは大事ではないが、葉子の虚言を訂正させずには置かないというように、倉地は詰め寄せてきびしく問い迫った。葉子は庭のほうにやっていた目を返して不思議そうに倉地を見た。
「いゝえといったらいゝえとよりいいようはありませんわ。あなたの『いゝえ』とわたしの『いゝえ』は『いゝえ』が違いでもしますかしら」
「酒も何も飲めるか……おれが暇を無理に作ってゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]くつろごうと思うて来れば、いらん事に角《かど》を立てて……何の薬になるかいそれが」
葉子はもう胸いっぱい悲しくなっていた。ほんとうは倉地の前に突っ伏して、自分は病気で始終からだが自由にならないのが倉地に気の毒だ。けれどもどうか捨てないで愛し続けてくれ。からだがだめになっても心の続く限りは自分は倉地の情人でいたい。そうよりできない。そこをあわれんでせめては心の誠をささげさしてくれ。もし倉地が明々地《あからさま》にいってくれさえすれば、元の細君《さいくん》を呼び迎えてくれても構わない。そしてせめては自分をあわれんでなり愛してくれ。そう嘆願がしたかったのだ。倉地はそれに感激してくれるかもしれない。おれはお前も愛するが去った妻も捨てるには忍びない。よくいってくれた。それならお前の言葉に甘えて哀れな妻を呼び迎えよう。妻もさぞお前の黄金のような心には感ずるだろう。おれは妻とは家庭を持とう。しかしお前とは恋を持とう。そういって涙ぐんでくれるかもしれない。もしそんな場面が起こり得たら葉子はどれほどうれしいだろう。葉子はその瞬間に、生まれ代わって、正しい生活が開けてくるのにと思った。それを考えただけで胸の中からは美しい涙がにじみ出すのだった。けれども、そんなばかをいうものではない、おれの愛しているのはお前|一人《ひとり》だ。元の妻などにおれが未練を持っていると思うのが間違いだ。病気があるのならさっそく病院にはいるがいい、費用はいくらでも出してやるから。こう倉地がいわないとも限らない。それはありそうな事だ。その時葉子は自分の心を立ち割って誠を見せた言葉が、情けも容赦も思いやりもなく、踏みにじられけがされてしまうのを見なければならないのだ。それは地獄《じごく》の苛責《かしゃく》よりも葉子には堪《た》えがたい事だ。たとい倉地が前の態度に出てくれる可能性が九十九あって、あとの態度を採りそうな可能性が一つしかないとしても、葉子には思いきって嘆願をしてみる勇気が出ないのだ。倉地も倉地で同じような事を思って苦しんでいるらしい。なんとかして元のようなかけ隔てのない葉子を見いだして、だんだんと陥って行く生活の窮境の中にも、せめてはしばらくなりとも人間らしい心になりたいと思って、葉子に近づいて来ているのだ。それをどこまでも知り抜きながら、そして身につまされて深い同情を感じながら、どうしても面と向かうと殺したいほど憎まないではいられない葉子の心は自分ながら悲しかった。
葉子は倉地の最後の一言《ひとこと》でその急所に触れられたのだった。葉子は倉地の目の前で見る見るしおれてしまった。泣くまいと気張《きば》りながら幾度も雄々《おお》しく涙を飲んだ。倉地は明らかに葉子の心を感じたらしく見えた。
「葉子! お前はなんでこのごろそう他所他所《よそよそ》しくしていなければならんのだ。え?」
といいながら葉子の手を取ろうとした。その瞬間に葉子の心は火のように怒《おこ》っていた。
「他所他所《よそよそ》しいのはあなたじゃありませんか」
そう知らず知らずいってしまって、葉子は没義道《も
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