思い出す」そう倉地のいった事がある。こんな写真がいったいこの部屋《へや》なんぞにあってはならないのだが。それはほんとうにならないのだ。倉地はまだこんなものを大事にしている。この女はいつまでも倉地に帰って来ようと待ち構えているのだ。そしてまだこの女は生きているのだ。それが幻なものか。生きているのだ、生きているのだ。……死なれるか、それで死なれるか。何が幻だ、何が虚無だ。このとおりこの女は生きているではないか……危うく……危うく自分は倉地を安堵《あんど》させる所だった。そしてこの女を……このまだ生《しょう》のあるこの女を喜ばせるところだった。
 葉子は一刹那《いっせつな》の違いで死の界《さかい》から救い出された人のように、驚喜に近い表情を顔いちめんにみなぎらして裂けるほど目を見張って、写真を持ったまま飛び上がらんばかりに突っ立ったが、急に襲いかかるやるせない嫉妬《しっと》の情と憤怒とにおそろしい形相《ぎょうそう》になって、歯がみをしながら、写真の一端をくわえて、「いゝ……」といいながら、総身《そうしん》の力をこめてまっ二つに裂くと、いきなり寝床の上にどう[#「どう」に傍点]と倒れて、物すごい叫び声を立てながら、涙も流さずに叫びに叫んだ。
 店のものがあわてて部屋にはいって来た時には、葉子はしおらしい様子をして、短銃を床の下に隠してしまって、しくしくとほんとうに泣いていた。
 番頭はやむを得ず、てれ隠しに、
 「夢でも御覧になりましたか、たいそうなお声だったものですから、つい御案内もいたさず飛び込んでしまいまして」
 といった。葉子は、
 「えゝ夢を見ました。あの黒い蛾《が》が悪いんです。早く追い出してください」
 そんなわけのわからない事をいって、ようやく涙を押しぬぐった。
 こういう発作《ほっさ》を繰り返すたびごとに、葉子の顔は暗くばかりなって行った。葉子には、今まで自分が考えていた生活のほかに、もう一つ不可思議な世界があるように思われて来た。そうしてややともすればその両方の世界に出たりはいったりする自分を見いだすのだった。二人《ふたり》の妹たちはただはらはらして姉の狂暴な振る舞いを見守るほかはなかった。倉地は愛子に刃物《はもの》などに注意しろといったりした。
 岡の来た時だけは、葉子のきげんは沈むような事はあっても狂暴になる事は絶えてなかったので、岡は妹たちの言葉にさして重きを置いていないように見えた。

    四〇

 六月のある夕方だった。もうたそがれ時で、電灯がともって、その周囲におびただしく杉森《すぎもり》の中から小さな羽虫《はむし》が集まってうるさく[#「うるさく」に傍点]飛び回り、やぶ蚊がすさまじく鳴きたてて軒先に蚊柱を立てているころだった。しばらく目で来た倉地が、張り出しの葉子の部屋《へや》で酒を飲んでいた。葉子はやせ細った肩を単衣物《ひとえもの》の下にとがらして、神経的に襟《えり》をぐっ[#「ぐっ」に傍点]とかき合わせて、きちん[#「きちん」に傍点]と膳《ぜん》のそばにすわって、華車《きゃしゃ》な団扇《うちわ》で酒の香《か》に寄りたかって来る蚊を追い払っていた。二人の間にはもう元のように滾々《こんこん》と泉のごとくわき出る話題はなかった。たまに話が少しはずんだと思うと、どちらかに差しさわるような言葉が飛び出して、ぷつん[#「ぷつん」に傍点]と会話を杜絶《とだ》やしてしまった。
 「貞《さあ》ちゃんやっぱり駄々《だだ》をこねるか」
 一口酒を飲んで、ため息をつくように庭のほうに向いて気を吐いた倉地は、自分で気分を引き立てながら思い出したように葉子のほうを向いてこう尋ねた。
 「えゝ、しようがなくなっちまいました。この四五日ったらことさらひどいんですから」
 「そうした時期もあるんだろう。まあたんといびらないで置くがいいよ」
 「わたし時々ほんとうに死にたくなっちまいます」
 葉子は途轍《とてつ》もなく貞世のうわさとは縁もゆかりもないこんなひょん[#「ひょん」に傍点]な事をいった。
 「そうだおれもそう思う事があるて……。落ち目になったら最後、人間は浮き上がるがめんどうになる。船でもが浸水し始めたら埒《らち》はあかんからな。……したが、おれはまだもう一反《ひとそ》り反《そ》ってみてくれる。死んだ気になって、やれん事は一つもないからな」
 「ほんとうですわ」
 そういった葉子の目はいらいらと輝いて、にらむように倉地を見た。
 「正井のやつが来るそうじゃないか」
 倉地はまた話題を転ずるようにこういった。葉子がそうだとさえいえば、倉地は割合に平気で受けて「困ったやつに見込まれたものだが、見込まれた以上はしかたがないから、空腹《ひもじ》がらないだけの仕向けをしてやるがいい」というに違いない事は、葉子によくわかってはいた
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