うが、そんな事を聞くんじゃないの。この下宿屋からそんな女の人が出て行きましたか」
「さよう……へ、一時間ばかり前ならお一人《ひとり》お帰りになりました」
「双鶴館のお内儀《かみ》さんでしょう」
図星《ずぼし》をさされたろうといわんばかりに葉子はわざと鷹揚《おうよう》な態度を見せてこう聞いてみた。
「いゝえそうじゃございません」
番頭は案外にもそうきっぱり[#「きっぱり」に傍点]といい切ってしまった。
「それじゃだれ」
「とにかく他のお部屋《へや》においでなさったお客様で、手前どもの商売上お名前までは申し上げ兼ねますが」
葉子もこの上の問答の無益なのを知ってそのまま番頭を返してしまった。
葉子はもう何者も信用する事ができなかった。ほんとうに双鶴館の女将《おかみ》が来たのではないらしくもあり、番頭までが倉地とぐる[#「ぐる」に傍点]になっていてしらじらしい虚言《うそ》をついたようにもあった。
何事も当てにはならない。何事もうそ[#「うそ」に傍点]から出た誠だ。……葉子はほんとうに生きている事がいやになった。
……そこまで来て葉子は始めて自分が家を出て来たほんとうの目的がなんであるかに気づいた。すべてにつまずいて、すべてに見限られて、すべてを見限ろうとする、苦しみぬいた一つの魂が、虚無の世界の幻の中から消えて行くのだ。そこには何の未練も執着もない。うれしかった事も、悲しかった事も、悲しんだ事も、苦しんだ事も、畢竟《ひっきょう》は水の上に浮いた泡《あわ》がまたはじけて水に帰るようなものだ。倉地が、死骸《しがい》になった葉子を見て嘆こうが嘆くまいが、その倉地さえ幻の影ではないか。双鶴館の女将《おかみ》だと思った人が、他人であったように、他人だと思ったその人が、案外双鶴館の女将であるかもしれないように、生きるという事がそれ自身幻影でなくってなんであろう。葉子は覚《さ》めきったような、眠りほうけているような意識の中でこう思った。しんしんと底も知らず澄み透《とお》った心がただ一つぎり[#「ぎり」に傍点]ぎりと死のほうに働いて行った。葉子の目には一しずくの涙も宿ってはいなかった。妙にさえて落ち付き払ったひとみを静かに働かして、部屋の中を静かに見回していたが、やがて夢遊病者のように立ち上がって、戸棚《とだな》の中から倉地の寝具を引き出して来て、それを部屋のまん中に敷いた。そうしてしばらくの間その上に静かにすわって目をつぶってみた。それからまた立ち上がって全く無感情な顔つきをしながら、もう一度|戸棚《とだな》に行って、倉地が始終身近に備えているピストルをあちこち[#「あちこち」に傍点]と尋ね求めた。しまいにそれが本箱の引き出しの中の幾通かの手紙と、書きそこねの書類と、四五枚の写真とがごっちゃ[#「ごっちゃ」に傍点]にしまい込んであるその中から現われ出た。葉子は妙に無関心な心持ちでそれを手に取った。そして恐ろしいものを取り扱うようにそれをからだから離して右手にぶら下げて寝床に帰った。そのくせ葉子は露ほどもその凶器におそれをいだいているわけではなかった。寝床のまん中にすわってからピストルを膝《ひざ》の上に置いて手をかけたまましばらくながめていたが、やがてそれを取り上げると胸の所に持って来て鶏頭《けいとう》を引き上げた。
きりっ[#「きりっ」に傍点]
と歯切れのいい音を立てて弾筒が少し回転した。同時に葉子の全身は電気を感じたようにびりっ[#「びりっ」に傍点]とおののいた。しかし葉子の心は水が澄んだように揺《ゆる》がなかった。葉子はそうしたまま短銃をまた膝《ひざ》の上に置いてじっ[#「じっ」に傍点]とながめていた。
ふと葉子はただ一つし残した事のあるのに気が付いた。それがなんであるかを自分でもはっきり[#「はっきり」に傍点]とは知らずに、いわば何物かの余儀ない命令に服従するように、また寝床から立ち上がって戸棚《とだな》の中の本箱の前に行って引き出しをあけた。そしてそこにあった写真を丁寧に一枚ずつ取り上げて静かにながめるのだった。葉子は心ひそかに何をしているんだろうと自分の動作《しうち》を怪しんでいた。
葉子はやがて一人《ひとり》の女の写真を見つめている自分を見いだした。長く長く見つめていた。……そのうちに、白痴がどうかしてだんだん真《ま》人間にかえる時はそうもあろうかと思われるように、葉子の心は静かに静かに自分で働くようになって行った。女の写真を見てどうするのだろうと思った。早く死ななければいけないのだがと思った。いったいその女はだれだろうと思った。……それは倉地の妻の写真だった。そうだ倉地の妻の若い時の写真だ。なるほど美しい女だ。倉地は今でもこの女に未練を持っているだろうか。この妻には三人のかわいい娘があるのだ。「今でも時々
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