ぎどう》に手を引っ込めた。倉地をにらみつける目からは熱い大粒の涙がぼろぼろとこぼれた。そして、
「あゝ……あ、地獄だ地獄だ」
と心の中で絶望的に切《せつ》なく叫んだ。
二人《ふたり》の間にはまたもやいまわしい沈黙が繰り返された。
その時玄関に案内の声が聞こえた。葉子はその声を聞いて古藤《ことう》が来たのを知った。そして大急ぎで涙を押しぬぐった。二階から降りて来て取り次ぎに立った愛子がやがて六畳の間《ま》にはいって来て、古藤が来たと告げた。
「二階にお通ししてお茶でも上げてお置き、なんだって今ごろ……御飯|時《どき》も構わないで……」
とめんどうくさそうにいったが、あれ以来来た事のない古藤にあうのは、今のこの苦しい圧迫からのがれるだけでも都合がよかった。このまま続いたらまた例の発作で倉地に愛想《あいそ》を尽かさせるような事をしでかすにきまっていたから。
「わたしちょっと会ってみますからね、あなた構わないでいらっしゃい。木村の事も探っておきたいから」
そういって葉子はその座をはずした。倉地は返事一つせずに杯を取り上げていた。
二階に行って見ると、古藤は例の軍服に上等兵の肩章を付けて、あぐらをかきながら貞世と何か話をしていた。葉子は今まで泣き苦しんでいたとは思えぬほど美しいきげんになっていた。簡単な挨拶《あいさつ》を済ますと古藤は例のいうべき事から先にいい始めた。
「ごめんどうですがね、あす定期検閲な所が今度は室内の整頓《せいとん》なんです。ところが僕《ぼく》は整頓風呂敷《せいとんぶろしき》を洗濯《せんたく》しておくのをすっかり[#「すっかり」に傍点]忘れてしまってね。今特別に外出を伍長《ごちょう》にそっ[#「そっ」に傍点]と頼んで許してもらって、これだけ布を買って来たんですが、縁《ふち》を縫ってくれる人がないんで弱って駆けつけたんです。大急ぎでやっていただけないでしょうか」
「おやすい御用ですともね。愛さん!」
大きく呼ぶと階下にいた愛子が平生《へいぜい》に似合わず、あたふた[#「あたふた」に傍点]と階子段《はしごだん》をのぼって来た。葉子はふとまた倉地を念頭に浮かべていやな気持ちになった。しかしそのころ貞世から愛子に愛が移ったかと思われるほど葉子は愛子を大事に取り扱っていた。それは前にも書いたとおり、しいても他人に対する愛情を殺す事によって、倉地との愛がより緊《かた》く結ばれるという迷信のような心の働きから起こった事だった。愛しても愛し足りないような貞世につらく当たって、どうしても気の合わない愛子を虫を殺して大事にしてみたら、あるいは倉地の心が変わって来るかもしれないとそう葉子は何がなしに思うのだった。で、倉地と愛子との間にどんな奇怪な徴候を見つけ出そうとも、念にかけても葉子は愛子を責めまいと覚悟をしていた。
「愛さん古藤さんがね、大急ぎでこの縁《ふち》を縫ってもらいたいとおっしゃるんだから、あなたして上げてちょうだいな。古藤さん、今下には倉地さんが来ていらっしゃるんですが、あなたはおきらいねおあいなさるのは……そう、じゃこちらでお話でもしますからどうぞ」
そういって古藤を妹たちの部屋《へや》の隣に案内した。古藤は時計を見い見いせわしそうにしていた。
「木村からたよりがありますか」
木村は葉子の良人《おっと》ではなく自分の親友だといったようなふうで、古藤はもう木村君とはいわなかった。葉子はこの前古藤が来た時からそれと気づいていたが、きょうはことさらその心持ちが目立って聞こえた。葉子はたびたび来ると答えた。
「困っているようですね」
「えゝ、少しはね」
「少しどころじゃないようですよ僕《ぼく》の所に来る手紙によると。なんでも来年に開かれるはずだった博覧会が来々年《さらいねん》に延びたので、木村はまたこの前以上の窮境に陥ったらしいのです。若いうちだからいいようなもののあんな不運な男もすくない。金も送っては来ないでしょう」
なんというぶしつけ[#「ぶしつけ」に傍点]な事をいう男だろうと葉子は思ったが、あまりいう事にわだかまり[#「わだかまり」に傍点]がないので皮肉でもいってやる気にはなれなかった。
「いゝえ相変わらず送ってくれますことよ」
「木村っていうのはそうした男なんだ」
古藤は半ばは自分にいうように感激した調子でこういったが、平気で仕送りを受けているらしく物をいう葉子にはひどく反感を催したらしく、
「木村からの送金を受け取った時、その金があなたの手を焼きただらかすようには思いませんか」
と激しく葉子をまとも[#「まとも」に傍点]に見つめながらいった。そして油でよごれたような赤い手で、せわしなく胸の真鍮《しんちゅう》ぼたんをはめたりはずしたりした。
「なぜですの」
「木村は困り
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