ましてしょう。お二階へどうぞ」
 といって自分から先に立った。居合わせた女中たちは目はし[#「はし」に傍点]をきかしていろいろと世話に立った。入り口の突き当たりの壁には大きなぼん[#「ぼん」に傍点]ぼん時計が一つかかっているだけでなんにもなかった。その右手の頑丈《がんじょう》な踏み心地《ごこち》のいい階子段《はしごだん》をのぼりつめると、他の部屋《へや》から廊下で切り放されて、十六畳と八畳と六畳との部屋が鍵形《かぎがた》に続いていた。塵《ちり》一つすえずにきちん[#「きちん」に傍点]と掃除《そうじ》が届いていて、三か所に置かれた鉄びんから立つ湯気《ゆげ》で部屋の中は軟《やわ》らかく暖まっていた。
 「お座敷へと申すところですが、御気《ごき》さくにこちらでおくつろぎくださいまし……三間《みま》ともとってはございますが」
 そういいながら女将《おかみ》は長火鉢《ながひばち》の置いてある六畳の間《ま》へと案内した。
 そこにすわってひととおりの挨拶を言葉少なに済ますと、女将は葉子の心を知り抜いているように、女中を連れて階下に降りて行ってしまった。葉子はほんとうにしばらくなりとも一人《ひとり》になってみたかったのだった。軽い暖かさを感ずるままに重い縮緬《ちりめん》の羽織《はおり》を脱ぎ捨てて、ありたけの懐中物を帯の間から取り出して見ると、凝りがちな肩も、重苦しく感じた胸もすがすがしくなって、かなり強い疲れを一時に感じながら、猫板《ねこいた》の上に肘《ひじ》を持たせて居ずまいをくずしてもたれかかった。古びを帯びた蘆屋釜《あしやがま》から鳴りを立てて白く湯気の立つのも、きれいにかきならされた灰の中に、堅そうな桜炭の火が白い被衣《かつぎ》の下でほんのり[#「ほんのり」に傍点]と赤らんでいるのも、精巧な用箪笥《ようだんす》のはめ込まれた一|間《けん》の壁に続いた器用な三尺床に、白菊をさした唐津焼《からつや》きの釣《つ》り花活《はない》けがあるのも、かすかにたきこめられた沈香《じんこう》のにおいも、目のつんだ杉柾《すぎまさ》の天井板も、細《ほ》っそりと磨《みが》きのかかった皮付きの柱も、葉子に取っては――重い、硬《こわ》い、堅い船室からようやく解放されて来た葉子に取ってはなつかしくばかりながめられた。こここそは屈強の避難所だというように葉子はつくづくあたりを見回した。そして部屋《へや》のすみにある生漆《きうるし》を塗った桑の広蓋《ひろぶた》を引き寄せて、それに手携《てさ》げや懐中物を入れ終わると、飽く事もなくその縁《ふち》から底にかけての円味《まるみ》を持った微妙な手ざわりを愛《め》で慈《いつく》しんだ。
 場所がらとてそこここからこの界隈《かいわい》に特有な楽器の声が聞こえて来た。天長節であるだけにきょうはことさらそれがにぎやかなのかもしれない。戸外にはぽくり[#「ぽくり」に傍点]やあずま下駄《げた》の音が少し冴《さ》えて絶えずしていた。着飾《きかざ》った芸者たちがみがき上げた顔をびりびりするような夜寒《よさむ》に惜しげもなく伝法《でんぽう》にさらして、さすがに寒気《かんき》に足を早めながら、招《よ》ばれた所に繰り出して行くその様子が、まざまざと履《は》き物《もの》の音を聞いたばかりで葉子の想像には描かれるのだった。合い乗りらしい人力車のわだちの音も威勢よく響いて来た。葉子はもう一度これは屈強な避難所に来たものだと思った。この界隈《かいわい》では葉子は眦《まなじり》を反《かえ》して人から見られる事はあるまい。
 珍しくあっさり[#「あっさり」に傍点]した、魚の鮮《あたら》しい夕食を済ますと葉子は風呂《ふろ》をつかって、思い存分髪を洗った。足《た》しない船の中の淡水では洗っても洗ってもねち[#「ねち」に傍点]ねちと垢《あか》の取り切れなかったものが、さわれば手が切れるほどさば[#「さば」に傍点]さばと油が抜けて、葉子は頭の中まで軽くなるように思った。そこに女将《おかみ》も食事を終えて話相手になりに来た。
 「たいへんお遅《おそ》うございますこと、今夜のうちにお帰りになるでしょうか」
 そう女将《おかみ》は葉子の思っている事を魁《さきが》けにいった。「さあ」と葉子もはっきり[#「はっきり」に傍点]しない返事をしたが、小寒《こさむ》くなって来たので浴衣《ゆかた》を着かえようとすると、そこに袖《そで》だたみにしてある自分の着物につくづく愛想《あいそ》が尽きてしまった。このへんの女中に対してもそんなしつっこい[#「しつっこい」に傍点]けばけばしい柄《がら》の着物は二度と着る気にはなれなかった。そうなると葉子はしゃにむにそれがたまらなくなって来るのだ。葉子はうんざり[#「うんざり」に傍点]した様子をして自分の着物から女将《おかみ》に目をやりながら、
 「
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