見てくださいこれを。この冬は米国にいるのだとばかり決めていたので、あんなものを作ってみたんですけれども、我慢にももう着ていられなくなりましたわ。後生《ごしょう》。あなたの所に何かふだん着《ぎ》のあいたのでもないでしょうか」
「どうしてあなた。わたしはこれでござんすもの」
と女将《おかみ》は剽軽《ひょうきん》にも気軽くちゃん[#「ちゃん」に傍点]と立ち上がって自分の背たけの低さを見せた。そうして立ったままでしばらく考えていたが、踊りで仕込み抜いたような手つきではた[#「はた」に傍点]と膝《ひざ》の上をたたいて、
「ようございます。わたし一つ倉地さんをびっくら[#「びっくら」に傍点]さして上げますわ。わたしの妹|分《ぶん》に当たるのに柄といい年格好といい、失礼ながらあなた様とそっくり[#「そっくり」に傍点]なのがいますから、それのを取り寄せてみましょう。あなた様は洗い髪でいらっしゃるなり……いかが、わたしがすっかり[#「すっかり」に傍点]仕立てて差し上げますわ」
この思い付きは葉子には強い誘惑だった。葉子は一も二もなく勇み立って承知した。
その晩十一時を過ぎたころに、まとめた荷物を人力車四台に積み乗せて、倉地が双鶴館《そうかくかん》に着いて来た。葉子は女将《おかみ》の入れ知恵でわざと玄関には出迎えなかった。葉子はいたずら者らしくひとり笑いをしながら立《た》て膝《ひざ》をしてみたが、それには自分ながら気がひけたので、右足を左の腿《もも》の上に積み乗せるようにしてその足先をとんび[#「とんび」に傍点]にしてすわってみた。ちょうどそこにかなり酔ったらしい様子で、倉地が女将《おかみ》の案内も待たずにずしん[#「ずしん」に傍点]ずしんという足どりではいって来た。葉子と顔を見合わした瞬間には部屋《へや》を間違えたと思ったらしく、少しあわてて身を引こうとしたが、すぐ櫛巻《くしま》きにして黒襟《くろえり》をかけたその女が葉子だったのに気が付くと、いつもの渋いように顔をくずして笑いながら、
「なんだばかをしくさって」
とほざくようにいって、長火鉢《ながひばち》の向かい座にどっか[#「どっか」に傍点]とあぐらをかいた。ついて来た女将《おかみ》は立ったまましばらく二人《ふたり》を見くらべていたが、
「ようよう……変てこなお内裏雛様《だいりびなさま》」
と陽気にかけ声をして笑いこけるようにぺちゃん[#「ぺちゃん」に傍点]とそこにすわり込んだ。三人は声を立てて笑った。
と、女将《おかみ》は急にまじめに返って倉地に向かい、
「こちらはきょうの報正新報を……」
といいかけるのを、葉子はすばやく目でさえぎった。女将はあぶない土端場《どたんば》で踏みとどまった。倉地は酔眼を女将に向けながら、
「何」
と尻《しり》上がりに問い返した。
「そう早耳を走らすとつんぼと間違えられますとさ」
と女将《おかみ》は事もなげに受け流した。三人はまた声を立てて笑った。
倉地と女将との間に一別以来のうわさ話がしばらくの間《あいだ》取りかわされてから、今度は倉地がまじめになった。そして葉子に向かってぶっきらぼう[#「ぶっきらぼう」に傍点]に、
「お前もう寝ろ」
といった。葉子は倉地と女将とをならべて一目見たばかりで、二人《ふたり》の間の潔白なのを見て取っていたし、自分が寝てあとの相談というても、今度の事件を上手《じょうず》にまとめようというについての相談だという事がのみ込めていたので、素直《すなお》に立って座をはずした。
中の十畳を隔てた十六畳に二人の寝床は取ってあったが、二人の会話はおりおりかなりはっきり[#「はっきり」に傍点]もれて来た。葉子は別に疑いをかけるというのではなかったが、やはりじっ[#「じっ」に傍点]と耳を傾けないではいられなかった。
何かの話のついでに入用な事が起こったのだろう、倉地はしきりに身のまわりを探って、何かを取り出そうとしている様子だったが、「あいつの手携《てさ》げに入れたかしらん」という声がしたので葉子ははっ[#「はっ」に傍点]と思った。あれには「報正新報」の切り抜きが入れてあるのだ。もう飛び出して行ってもおそいと思って葉子は断念していた。やがてはたして二人は切り抜きを見つけ出した様子だった。
「なんだあいつも知っとったのか」
思わず少し高くなった倉地の声がこう聞こえた。
「道理でさっき[#「さっき」に傍点]私がこの事をいいかけるとあの方《かた》が目で留めたんですよ。やはり先方《あちら》でもあなたに知らせまいとして。いじらしいじゃありませんか」
そういう女将の声もした。そして二人はしばらく黙っていた。
葉子は寝床を出てその場に行こうかとも思った。しかし今夜は二人に任せておくほうがいいと思い返してふとんを耳
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