恐ろしいほど敏捷《びんしょう》に働く心で、顔にも現わさない葉子の躊躇《ちゅうちょ》を見て取ったらしくこうなじるように尋ねたが、葉子がなんでもないと応《こた》えると、少しも拘泥《こうでい》せずに、それ以上問い詰めようとはしなかった。
どうしても旅館に帰るのがいやだったので、非常な物足らなさを感じながら、葉子はそのままそこから倉地に別れる事にした。倉地は力のこもった目で葉子をじっ[#「じっ」に傍点]と見てちょっとうなずくとあとをも見ないでどんどんと旅館のほうに濶歩《かっぽ》して行った。葉子は残り惜しくその後ろ姿を見送っていたが、それになんという事もない軽い誇りを感じてかすかにほほえみながら、倉地が登って来た坂道を一人《ひとり》で降りて行った。
停車場に着いたころにはもう瓦斯《ガス》の灯《ひ》がそこらにともっていた。葉子は知った人にあうのを極端に恐れ避けながら、汽車の出るすぐ前まで停車場前の茶店の一間《ひとま》に隠れていて一等室に飛び乗った。だだっ広《ぴろ》いその客車には外務省の夜会に行くらしい三人の外国人が銘々、デコルテーを着飾った婦人を介抱して乗っているだけだった。いつものとおりその人たちは不思議に人をひきつける葉子の姿に目をそばだてた。けれども葉子はもう左手の小指を器用に折り曲げて、左の鬢《びん》のほつれ毛を美しくかき上げるあの嬌態《しな》をして見せる気はなくなっていた。室《へや》のすみに腰かけて、手携《てさ》げとパラソルとを膝《ひざ》に引きつけながら、たった一人その部屋《へや》の中にいるもののように鷹揚《おうよう》に構えていた。偶然顔を見合わせても、葉子は張りのあるその目を無邪気に(ほんとうにそれは罪を知らない十六七の乙女《おとめ》の目のように無邪気だった)大きく見開いて相手の視線をはにかみもせず迎えるばかりだった。先方の人たちの年齢がどのくらいで容貌《ようぼう》がどんなふうだなどという事も葉子は少しも注意してはいなかった。その心の中にはただ倉地の姿ばかりがいろいろに描かれたり消されたりしていた。
列車が新橋《しんばし》に着くと葉子はしとやか[#「しとやか」に傍点]に車を出たが、ちょうどそこに、唐桟《とうざん》に角帯《かくおび》を締めた、箱丁《はこや》とでもいえばいえそうな、気のきいた若い者が電報を片手に持って、目ざとく葉子に近づいた。それが双鶴館《そうかくかん》からの出迎えだった。
横浜にも増して見るものにつけて連想の群がり起こる光景、それから来る強い刺激……葉子は宿から回された人力車《じんりきしゃ》の上から銀座《ぎんざ》通りの夜のありさまを見やりながら、危うく幾度も泣き出そうとした。定子の住む同じ土地に帰って来たと思うだけでももう胸はわくわくした。愛子《あいこ》も貞世《さだよ》もどんな恐ろしい期待に震えながら自分の帰るのを待ちわびているだろう。あの叔父叔母《おじおば》がどんな激しい言葉で自分をこの二人《ふたり》の妹に描いて見せているか。構うものか。なんとでもいうがいい。自分はどうあっても二人を自分の手に取り戻《もど》してみせる。こうと思い定めた上は指もささせはしないから見ているがいい。……ふと人力車が尾張町《おわりちょう》のかどを左に曲がると暗い細い通りになった。葉子は目ざす旅館が近づいたのを知った。その旅館というのは、倉地が色ざたでなくひいきにしていた芸者がある財産家に落籍《ひか》されて開いた店だというので、倉地からあらかじめかけ合っておいたのだった。人力車がその店に近づくに従って葉子はその女将《おかみ》というのにふとした懸念を持ち始めた。未知の女同志が出あう前に感ずる一種の軽い敵愾心《てきがいしん》が葉子の心をしばらくは余の事柄《ことがら》から切り放した。葉子は車の中で衣紋《えもん》を気にしたり、束髪《そくはつ》の形を直したりした。
昔の煉瓦建《れんがだ》てをそのまま改造したと思われる漆喰《しっくい》塗りの頑丈《がんじょう》な、角《かど》地面の一構えに来て、煌々《こうこう》と明るい入り口の前に車夫が梶棒《かじぼう》を降ろすと、そこにはもう二三人の女の人たちが走り出て待ち構えていた。葉子は裾前《すそまえ》をかばいながら車から降りて、そこに立ちならんだ人たちの中からすぐ女将《おかみ》を見分ける事ができた。背たけが思いきって低く、顔形も整ってはいないが、三十女らしく分別《ふんべつ》の備わった、きかん[#「きかん」に傍点]気らしい、垢《あか》ぬけのした人がそれに違いないと思った。葉子は思い設けた以上の好意をすぐその人に対して持つ事ができたので、ことさら快い親しみを持ち前の愛嬌《あいきょう》に添えながら、挨拶《あいさつ》をしようとすると、その人は事もなげにそれをさえぎって、
「いずれ御挨拶は後ほど、さぞお寒うござい
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