遜《けんそん》のしっこをなさるのね。岡さんだってそうお弱くはないし、古藤さんときたらそれは意志堅固……」
 「そうなら僕はきょうもここなんかには来やしません。木村君にもとうに決心をさせているはずなんです」
 葉子の言葉を中途から奪って、古藤はしたたか自分自身をむちうつように激しくこういった。葉子は何もかもわかっているくせにしら[#「しら」に傍点]を切って不思議そうな目つきをして見せた。
 「そうだ、思いきっていうだけの事はいってしまいましょう。……岡君立たないでください。君がいてくださるとかえっていいんです」
 そういって古藤は葉子をしばらく熟視してからいい出す事をまとめようとするように下を向いた。岡もちょっと形を改めて葉子のほうをぬすみ見るようにした。葉子は眉《まゆ》一つ動かさなかった。そしてそばにいる貞世に耳うちして、愛子を手伝って五時に夕食の食べられる用意をするように、そして三縁亭《さんえんてい》から三皿《みさら》ほどの料理を取り寄せるようにいいつけて座をはずさした。古藤はおどるようにして部屋《へや》を出て行く貞世をそっ[#「そっ」に傍点]と目のはずれで見送っていたが、やがておもむろに顔をあげた。日に焼けた顔がさらに赤くなっていた。
 「僕はね……(そういっておいて古藤はまた考えた)……あなたが、そんな事はないとあなたはいうでしょうが、あなたが倉地というその事務長の人の奥さんになられるというのなら、それが悪いって思ってるわけじゃないんです。そんな事があるとすりゃそりゃしかたのない事なんだ。……そしてですね、僕にもそりゃわかるようです。……わかるっていうのは、あなたがそうなればなりそうな事だと、それがわかるっていうんです。しかしそれならそれでいいから、それを木村にはっきり[#「はっきり」に傍点]といってやってください。そこなんだ僕のいわんとするのは。あなたは怒《おこ》るかもしれませんが、僕は木村に幾度も葉子さんとはもう縁を切れって勧告しました。これまで僕があなたに黙ってそんな事をしていたのはわるかったからお断わりをします(そういって古藤はちょっと誠実に頭を下げた。葉子も黙ったまままじめにうなずいて見せた)。けれども木村からの返事は、それに対する返事はいつでも同一なんです。葉子から破約の事を申し出て来るか、倉地という人との結婚を申し出て来るまでは、自分はだれの言葉よりも葉子の言葉と心とに信用をおく。親友であってもこの問題については、君の勧告だけでは心は動かない。こうなんです。木村ってのはそんな男なんですよ(古藤の言葉はちょっと曇ったがすぐ元のようになった)。それをあなたは黙っておくのは少し変だと思います」
 「それで……」
 葉子は少し座を乗り出して古藤を励ますように言葉を続けさせた。
 「木村からは前からあなたの所に行ってよく事情を見てやってくれ、病気の事も心配でならないからといって来てはいるんですが、僕は自分ながらどうしようもない妙な潔癖があるもんだからつい伺いおくれてしまったのです。なるほどあなたは先《せん》よりはやせましたね。そうして顔の色もよくありませんね」
 そういいながら古藤はじっ[#「じっ」に傍点]と葉子の顔を見やった。葉子は姉のように一段の高みから古藤の目を迎えて鷹揚《おうよう》にほほえんでいた。いうだけいわせてみよう、そう思って今度は岡のほうに目をやった。
 「岡さん。あなた今古藤さんのおっしゃる事をすっかり[#「すっかり」に傍点]お聞きになっていてくださいましたわね。あなたはこのごろ失礼ながら家族の一人《ひとり》のようにこちらに遊びにおいでくださるんですが、わたしをどうお思いになっていらっしゃるか、御遠慮なく古藤さんにお話しなすってくださいましな。決して御遠慮なく……わたしどんな事を伺っても決して決してなんとも思いはいたしませんから」
 それを聞くと岡はひどく当惑して顔をまっ赤《か》にして処女のように羞恥《はに》かんだ。古藤のそばに岡を置いて見るのは、青銅の花《か》びんのそばに咲きかけの桜を置いて見るようだった。葉子はふと心に浮かんだその対比を自分ながらおもしろいと思った。そんな余裕を葉子は失わないでいた。
 「わたしこういう事柄《ことがら》には物をいう力はないように思いますから……」
 「そういわないでほんとうに思った事をいってみてください。僕は一徹ですからひどい思い間違いをしていないとも限りませんから。どうか聞かしてください」
 そういって古藤も肩章《けんしょう》越しに岡を顧みた。
 「ほんとうに何もいう事はないんですけれども……木村さんにはわたし口にいえないほど御同情しています。木村さんのようないい方《かた》が今ごろどんなにひとりでさびしく思っていられるかと思いやっただけでわたしさびしくなってしま
前へ 次へ
全117ページ中52ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング