います。けれども世の中にはいろいろな運命があるのではないでしょうか。そうして銘々は黙ってそれを耐えて行くよりしかたがないようにわたし思います。そこで無理をしようとするとすべての事が悪くなるばかり……それはわたしだけの考えですけれども。わたしそう考えないと一刻も生きていられないような気がしてなりません。葉子さんと木村さんと倉地さんとの関係はわたし少しは知ってるようにも思いますけれども、よく考えてみるとかえってちっとも知らないのかもしれませんねえ。わたしは自分自身が少しもわからないんですからお三人の事なども、わからない自分の、わからない想像だけの事だと思いたいんです。……古藤さんにはそこまではお話ししませんでしたけれども、わたし自分の家の事情がたいへん苦しいので心を打ちあけるような人を持っていませんでしたが……、ことに母とか姉妹とかいう女の人に……葉子さんにお目にかかったら、なんでもなくそれができたんです。それでわたしはうれしかったんです。そうして葉子さんが木村さんとどうしても気がお合いにならない、その事も失礼ですけれども今の所ではわたし想像が違っていないようにも思います。けれどもそのほかの事はわたしなんとも自信をもっていう事ができません。そんな所まで他人が想像をしたり口を出したりしていいものかどうかもわたしわかりません。たいへん独善的に聞こえるかもしれませんが、そんな気はなく、運命にできるだけ従順にしていたいと思うと、わたし進んで物をいったりしたりするのが恐ろしいと思います。……なんだか少しも役に立たない事をいってしまいまして……わたしやはり力がありませんから、何もいわなかったほうがよかったんですけれども……」
そう絶え入るように声を細めて岡は言葉を結ばぬうちに口をつぐんでしまった。そのあとには沈黙だけがふさわしいように口をつぐんでしまった。
実際そのあとには不思議なほどしめやかな沈黙が続いた。たき込めた香《こう》のにおいがかすかに動くだけだった。
「あんなに謙遜《けんそん》な岡君も(岡はあわててその賛辞らしい古藤の言葉を打ち消そうとしそうにしたが、古藤がどんどん言葉を続けるのでそのまま顔を赤くして黙ってしまった)あなたと木村とがどうしても折り合わない事だけは少なくとも認めているんです。そうでしょう」
葉子は美しい沈黙をがさつ[#「がさつ」に傍点]な手でかき乱された不快をかすかに物足らなく思うらしい表情をして、
「それは洋行する前、いつぞや横浜に一緒に行っていただいた時くわしくお話ししたじゃありませんか。それはわたしどなたにでも申し上げていた事ですわ」
「そんならなぜ……その時は木村のほかには保護者はいなかったから、あなたとしてはお妹さんたちを育てて行く上にも自分を犠牲にして木村に行く気でおいでだったかもしれませんがなぜ……なぜ今になっても木村との関係をそのままにしておく必要があるんです」
岡は激しい言葉で自分が責められるかのようにはらはらしながら首を下げたり、葉子と古藤の顔とをかたみがわりに見やったりしていたが、とうとう居たたまれなくなったと見えて、静かに座を立って人のいない二階のほうに行ってしまった。葉子は岡の心持ちを思いやって引き止めなかったし、古藤は、いてもらった所がなんの役にも立たないと思ったらしくこれも引き止めはしなかった。さす花もない青銅の花《か》びん一つ……葉子は心の中で皮肉にほほえんだ。
「それより先に伺わしてちょうだいな、倉地さんはどのくらいの程度でわたしたちを保護していらっしゃるか御存じ?」
古藤はすぐぐっ[#「ぐっ」に傍点]と詰まってしまった。しかしすぐ盛り返して来た。
「僕《ぼく》は岡君と違ってブルジョアの家に生まれなかったものですからデリカシーというような美徳をあまりたくさん持っていないようだから、失礼な事をいったら許してください。倉地って人は妻子まで離縁した……しかも非常に貞節らしい奥さんまで離縁したと新聞に出ていました」
「そうね新聞には出ていましたわね。……ようございますわ、仮にそうだとしたらそれが何かわたしと関係のある事だとでもおっしゃるの」
そういいながら葉子は少し気に障《さ》えたらしく、炭取りを引き寄せて火鉢《ひばち》に火をつぎ足した。桜炭の火花が激しく飛んで二人《ふたり》の間にはじけた。
「まあひどいこの炭は、水をかけずに持って来たと見えるのね。女ばかりの世帯だと思って出入りの御用聞きまで人をばかにするんですのよ」
葉子はそう言い言い眉《まゆ》をひそめた。古藤は胸をつかれたようだった。
「僕は乱暴なもんだから……いい過ぎがあったらほんとうに許してください。僕は実際いかに親友だからといって木村ばかりをいいようにと思ってるわけじゃないんですけれども、全くあの境遇
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