が潜んでいた。一度ぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]とつかみ得たらもう動かないある物がその中に横たわっているに違いない、そういう期待を心のすみからぬぐい去る事ができなかったのだった。それは倉地が葉子の蠱惑《こわく》に全く迷わされてしまって再び自分を回復し得ない時期があるだろうというそれだった。恋をしかけたもののひけめ[#「ひけめ」に傍点]として葉子は今まで、自分が倉地を愛するほど倉地が自分を愛してはいないとばかり思った。それがいつでも葉子の心を不安にし、自分というものの居すわり所までぐらつかせた。どうかして倉地を痴呆《ちほう》のようにしてしまいたい。葉子はそれがためにはある限りの手段を取って悔いなかったのだ。妻子を離縁させても、社会的に死なしてしまっても、まだまだ物足らなかった。竹柴館の夜に葉子は倉地を極印付きの凶状持ちにまでした事を知った。外界から切り離されるだけそれだけ倉地が自分の手に落ちるように思っていた葉子はそれを知って有頂天《うちょうてん》になった。そして倉地が忍ばねばならぬ屈辱を埋め合わせるために葉子は倉地が欲すると思わしい激しい情欲を提供しようとしたのだ。そしてそうする事によって、葉子自身が結局自己を銷尽《しょうじん》して倉地の興味から離れつつある事には気づかなかったのだ。
 とにもかくにも二人の関係は竹柴館の一夜から面目を改めた。葉子は再び妻から情熱の若々しい情人になって見えた。そういう心の変化が葉子の肉体に及ぼす変化は驚くばかりだった。葉子は急に三つも四つも若やいだ。二十六の春を迎えた葉子はそのころの女としてはそろそろ老いの徴候をも見せるはずなのに、葉子は一つだけ年を若く取ったようだった。
 ある天気のいい午後――それは梅のつぼみがもう少しずつふくらみかかった午後の事だったが――葉子が縁側に倉地の肩に手をかけて立ち並びながら、うっとり[#「うっとり」に傍点]と上気して雀《すずめ》の交わるのを見ていた時、玄関に訪れた人の気配がした。
 「だれでしょう」
 倉地は物|惰《う》さそうに、
 「岡だろう」
 といった。
 「いゝえきっと正井さんよ」
 「なあに岡だ」
 「じゃ賭《か》けよ」
 葉子はまるで少女のように甘ったれた口調でいって玄関に出て見た。倉地がいったように岡だった。葉子は挨拶《あいさつ》もろくろくしないでいきなり[#「いきなり」に傍点]岡の手をしっかり[#「しっかり」に傍点]と取った。そして小さな声で、
 「よくいらしってね。その間着《あいぎ》のよくお似合いになる事。春らしいいい色地ですわ。今倉地と賭《か》けをしていた所。早くお上がり遊ばせ」
 葉子は倉地にしていたように岡のやさ肩に手を回してならびながら座敷にはいって来た。
 「やはりあなたの勝ちよ。あなたはあて[#「あて」に傍点]事がお上手《じょうず》だから岡さんを譲って上げたらうまくあたったわ。今|御褒美《ごほうび》を上げるからそこで見ていらっしゃいよ」
 そう倉地にいうかと思うと、いきなり岡を抱きすくめてその頬《ほお》に強い接吻《せっぷん》を与えた。岡は少女のように恥じらってしいて葉子から離れようともがいた。倉地は例の渋いように口もとをねじってほほえみながら、
 「ばか!……このごろこの女は少しどうかしとりますよ。岡さん、あなた一つ背中でもどやしてやってください。……まだ勉強か」
 といいながら葉子に天井を指さして見せた。葉子は岡に背中を向けて「さあどやしてちょうだい」といいながら、今度は天井を向いて、
 「愛さん、貞《さあ》ちゃん、岡さんがいらしってよ。お勉強が済んだら早くおりておいで」
 と澄んだ美しい声で蓮葉《はすは》に叫んだ。
 「そうお」
 という声がしてすぐ貞世が飛んでおりて来た。
 「貞《さあ》ちゃんは今勉強が済んだのか」
 と倉地が聞くと貞世は平気な顔で、
 「ええ今済んでよ」
 といった。そこにはすぐはなやかな笑いが破裂した。愛子はなかなか下に降りて来ようとはしなかった。それでも三人は親しくチャブ台を囲んで茶を飲んだ。その日岡は特別に何かいい出したそうにしている様子だったが。やがて、
 「きょうはわたし少しお願いがあるんですが皆様きいてくださるでしょうか」
 重苦しくいい出した。
 「えゝえゝあなたのおっしゃる事ならなんでも……ねえ貞《さあ》ちゃん(とここまでは冗談らしくいったが急にまじめになって)……なんでもおっしゃってくださいましな、そんな他人行儀をしてくださると変ですわ」
 と葉子がいった。
 「倉地さんもいてくださるのでかえっていいよいと思いますが古藤《ことう》さんをここにお連れしちゃいけないでしょうか。……木村さんから古藤さんの事は前から伺っていたんですが、わたしは初めてのお方にお会いするのがなんだか億劫《おっくう》な質《
前へ 次へ
全117ページ中50ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング