ど高く飛び出てはいずっていた。泳ぎ回る者でもいるように頭の中がぐらぐらする葉子には、殺人者が凶行から目ざめて行った時のような底の知れない気味わるさが感ぜられた。葉子は密《ひそ》やかにその部屋を抜け出して戸外に出た。
降るような真昼《まひる》の光線にあうと、両眼は脳心のほうにしゃにむに引きつけられてたまらない痛さを感じた。かわいた空気は息気《いき》をとめるほど喉《のど》を干《ひ》からばした。葉子は思わずよろけて入り口の下見板《したみいた》に寄りかかって、打撲を避けるように両手で顔を隠してうつむいてしまった。
やがて葉子は人を避けながら芝生《しばふ》の先の海ぎわに出てみた。満月に近いころの事とて潮は遠くひいていた。蘆《あし》の枯れ葉が日を浴びて立つ沮洳地《そじょち》のような平地が目の前に広がっていた。しかし自然は少しも昔の姿を変えてはいなかった。自然も人もきのうのままの営みをしていた。葉子は不思議なものを見せつけられたように茫然《ぼうぜん》として潮干潟《しおひがた》の泥《どろ》を見、うろこ雲で飾られた青空を仰いだ。ゆうべの事が真実ならこの景色は夢であらねばならぬ。この景色が真実ならゆうべの事は夢であらねばならぬ。二つが両立しようはずはない。……葉子は茫然《ぼうぜん》としてなお目にはいって来るものをながめ続けた。
痲痺《まひ》しきったような葉子の感覚はだんだん回復して来た。それと共に瞑眩《めまい》を感ずるほどの頭痛をまず覚えた。次いで後腰部に鈍重な疼《いた》みがむくむくと頭をもたげるのを覚えた。肩は石のように凝っていた。足は氷のように冷えていた。
ゆうべの事は夢ではなかったのだ……そして今見るこの景色も夢ではあり得ない……それはあまりに残酷だ、残酷だ。なぜゆうべをさかいにして、世の中はかるたを裏返したように変わっていてはくれなかったのだ。
この景色のどこに自分は身をおく事ができよう。葉子は痛切に自分が落ち込んで行った深淵《しんえん》の深みを知った。そしてそこにしゃがん[#「しゃがん」に傍点]でしまって、苦《にが》い涙を泣き始めた。
懺悔《ざんげ》の門の堅く閉ざされた暗い道がただ一筋、葉子の心の目には行く手に見やられるばかりだった。
三四
ともかくも一家の主となり、妹たちを呼び迎えて、その教育に興味と責任とを持ち始めた葉子は、自然自然に妻らしくまた母らしい本能に立ち帰って、倉地に対する情念にもどこか肉から精神に移ろうとする傾きができて来るのを感じた。それは楽しい無事とも考えれば考えられぬ事はなかった。しかし葉子は明らかに倉地の心がそういう状態の下《もと》には少しずつ硬《こわ》ばって行き冷えて行くのを感ぜずにはいられなかった。それが葉子には何よりも不満だった。倉地を選んだ葉子であってみれば、日がたつに従って葉子にも倉地が感じ始めたと同様な物足らなさが感ぜられて行った。落ち着くのか冷えるのか、とにかく倉地の感情が白熱して働かないのを見せつけられる瞬間は深いさびしみを誘い起こした。こんな事で自分の全我を投げ入れた恋の花を散ってしまわせてなるものか。自分の恋には絶頂があってはならない。自分にはまだどんな難路でも舞い狂いながら登って行く熱と力とがある。その熱と力とが続く限り、ぼんやり腰を据《す》えて周囲の平凡な景色などをながめて満足してはいられない。自分の目には絶巓《ぜってん》のない絶巓ばかりが見えていたい。そうした衝動は小休《おや》みなく葉子の胸にわだかまっていた。絵島丸の船室で倉地が見せてくれたような、何もかも無視した、神のように狂暴な熱心――それを繰り返して行きたかった。
竹柴館《たけしばかん》の一夜はまさしくそれだった。その夜葉子は、次の朝になって自分が死んで見いだされようとも満足だと思った。しかし次の朝生きたままで目を開くと、その場で死ぬ心持ちにはもうなれなかった。もっと嵩《こう》じた歓楽を追い試みようという欲念、そしてそれができそうな期待が葉子を未練にした。それからというもの葉子は忘我渾沌《ぼうがこんとん》の歓喜に浸るためには、すべてを犠牲としても惜しまない心になっていた。そして倉地と葉子とは互い互いを楽しませそしてひき寄せるためにあらん限りの手段を試みた。葉子は自分の不可犯性(女が男に対して持ついちばん強大な蠱惑《こわく》物)のすべてまで惜しみなく投げ出して、自分を倉地の目に娼婦《しょうふ》以下のものに見せるとも悔いようとはしなくなった。二人《ふたり》は、はた目には酸鼻《さんび》だとさえ思わせるような肉欲の腐敗の末遠く、互いに淫楽《いんらく》の実《み》を互い互いから奪い合いながらずるずると壊《こわ》れこんで行くのだった。
しかし倉地は知らず、葉子に取ってはこのいまわしい腐敗の中にも一縷《いちる》の期待
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