や絶望的にしているのではないのですか。もしそうならあなたは全然|誤謬《ごびゅう》に陥っていると思います。すべての救いは思いきってその中から飛び出すほかにはないのでしょう。そこに停滞しているのはそれだけあなたの暗い過去を暗くするばかりです。あなたは僕に信頼を置いてくださる事はできないのでしょうか。人類の中に少なくも一人《ひとり》、あなたのすべての罪を喜んで忘れようと両手を広げて待ち設けているもののあるのを信じてくださる事はできないでしょうか。
 こんな下らない理屈はもうやめましょう。
 昨夜書いた手紙に続けて書きます。けさハミルトン氏の所から至急に来いという電話がかかりました。シカゴの冬は予期以上に寒いのです。仙台どころの比ではありません。雪は少しもないけれども、イリー湖を多湖地方から渡って来る風は身を切るようでした。僕は外套《がいとう》の上にまた大外套を重《かさ》ね着《ぎ》していながら、風に向いた皮膚にしみとおる風の寒さを感じました。ハミルトン氏の用というのは来年セントルイスに開催される大規模な博覧会の協議のため急にそこに赴《おもむ》くようになったから同行しろというのでした。僕は旅行の用意はなんらしていなかったが、ここにアメリカニズムがあるのだと思ってそのまま同行する事にしました。自分の部屋《へや》の戸に鍵《かぎ》もかけずに飛び出したのですからバビコック博士《はかせ》の奥さんは驚いているでしょう。しかしさすがに米国です。着のみ着のままでここまで来ても何一つ不自由を感じません。鎌倉《かまくら》あたりまで行くのにも膝《ひざ》かけから旅カバンまで用意しなければならないのですから、日本の文明はまだなかなかのものです。僕たちはこの地に着くと、停車場内の化粧室で髭《ひげ》をそり、靴《くつ》をみがかせ、夜会に出ても恥ずかしくないしたくができてしまいました。そしてすぐ協議会に出席しました。あなたも知っておらるるとおりドイツ人のあのへんにおける勢力は偉いものです。博覧会が開けたら、われわれは米国に対してよりもむしろこれらのドイツ人に対して褌裸《きんこん》一番する必要があります。ランチの時僕はハミルトン氏に例の日本に買い占めてあるキモノその他の話をもう一度しました。博覧会を前に控えているのでハミルトン氏も今度は乗り気になってくれまして、高島屋《たかしまや》と連絡をつけておくためにとにかく品物を取り寄せて自分の店でさばかしてみようといってくれました。これで僕の財政は非常に余裕ができるわけです。今まで店がなかったばかりに、取り寄せても荷厄介《にやっかい》だったものですが、ハミルトン氏の店で取り扱ってくれれば相当に売れるのはわかっています。そうなったら今までと違ってあなたのほうにも足りないながら仕送りをして上げる事ができましょう。さっそく電報を打っていちばん早い船便で取り寄せる事ににしましたから不日着荷《ふじつちゃくに》する事と思っています。
 今は夜もだいぶふけました。ハミルトン氏は今夜も饗応《きょうおう》に呼ばれて出かけました。大きらいなテーブル・スピーチになやまされているのでしょう。ハミルトン氏は実にシャープなビジネスマンライキな人です。そして熱心な正統派の信仰を持った慈善家です。僕はことのほか信頼され重宝《ちょうほう》がられています。そこから僕のライフ・キャリヤアを踏み出すのは大なる利益です。僕の前途には確かに光明が見え出して来ました。
 あなたに書く事は底止《ていし》なく書く事です。しかしあすの奮闘的生活(これは大統領ルーズベルトの著書の "Strenuous Life" を訳してみた言葉です。今この言葉は当地の流行語になっています)に備えるために筆を止めねばなりません。この手紙はあなたにも喜びを分けていただく事ができるかと思います。
 きのうセントルイスから帰って来たら、手紙がかなり多数届いていました。郵便局の前を通るにつけ、郵便箱を見るにつけ、脚夫《きゃくふ》に行きあうにつけ、僕はあなたを連想しない事はありません。自分の机の上に来信を見いだした時はなおさらの事です。僕は手紙の束の間《あいだ》をかき分けてあなたの手跡を見いだそうとつとめました。しかし僕はまた絶望に近い失望に打たれなければなりませんでした。僕は失望はしましょう。しかし絶望はしません。できません葉子さん、信じてください。僕はロングフェローのエヴァンジェリンの忍耐と謙遜《けんそん》とをもってあなたが僕の心をほんとうに汲《く》み取ってくださる時を待っています。しかし手紙の束の中からはわずかに僕を失望から救うために古藤君と岡君との手紙が見いだされました。古藤君の手紙は兵営に行く五日前に書かれたものでした。いまだにあなたの居所を知る事ができないので、僕の手紙はやはり倉地氏にあてて回送して
前へ 次へ
全117ページ中35ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング