なったほうがいいわい。みんな知っとるだけ一々申し訳をいわずと済む。お前はまたまだそれしきの事にくよくよしとるんか。ばかな。……それより妹たちは来とるんか。寝顔にでもお目にかかっておこうよ。写真――船の中にあったね――で見てもかわいらしい子たちだったが……」
 二人《ふたり》はやおらその部屋を出た。そして十畳と茶の間との隔ての襖《ふすま》をそっと明けると、二人の姉妹は向かい合って別々の寝床にすやすやと眠っていた。緑色の笠《かさ》のかかった、電灯の光は海の底のように部屋の中を思わせた。
 「あっちは」
 「愛子」
 「こっちは」
 「貞世」
 葉子は心ひそかに、世にも艶《つや》やかなこの少女|二人《ふたり》を妹に持つ事に誇りを感じて暖かい心になっていた。そして静かに膝《ひざ》をついて、切り下げにした貞世の前髪をそっ[#「そっ」に傍点]となであげて倉地に見せた。倉地は声を殺すのに少なからず難儀なふうで、
 「そうやるとこっちは、貞世は、お前によく似とるわい。……愛子は、ふむ、これはまたすてきな美人じゃないか。おれはこんなのは見た事がない……お前の二の舞いでもせにゃ結構だが……」
 そういいながら倉地は愛子の顔ほどもあるような大きな手をさし出して、そうしたい誘惑を退けかねるように、紅椿《べにつばき》のような紅《あか》いその口びるに触れてみた。
 その瞬間に葉子はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。倉地の手が愛子の口びるに触れた時の様子から、葉子は明らかに愛子がまだ目ざめていて、寝たふりをしているのを感づいたと思ったからだ。葉子は大急ぎで倉地に目くばせしてそっとその部屋を出た。

    三〇

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 「僕《ぼく》が毎日――毎日とはいわず毎時間あなたに筆を執らないのは執りたくないから執らないのではありません。僕は一日あなたに書き続けていてもなお飽き足らないのです。それは今の僕の境界《きょうがい》では許されない事です。僕は朝から晩まで機械のごとく働かねばなりませんから。
 あなたが米国を離れてからこの手紙はたぶん七回目の手紙としてあなたに受け取られると思います。しかし僕の手紙はいつまでも暇をぬすんで少しずつ書いているのですから、僕からいうと日に二度も三度もあなたにあてて書いてるわけになるのです。しかしあなたはあの後一回の音信も恵んではくださらない。
 僕は繰り返し繰り返しいいます。たといあなたにどんな過失どんな誤謬《ごびゅう》があろうとも、それを耐え忍び、それを許す事においては主キリスト以上の忍耐力を持っているのを僕は自ら信じています。誤解しては困ります。僕がいかなる人に対してもかかる力を持っているというのではないのです。ただあなたに対してです。あなたはいつでも僕の品性を尊《とうと》く導いてくれます。僕はあなたによって人がどれほど愛しうるかを学びました。あなたによって世間でいう堕落とか罪悪とかいう者がどれほどまで寛容の余裕があるかを学びました。そうしてその寛容によって、寛容する人自身がどれほど品性を陶冶《とうや》されるかを学びました。僕はまた自分の愛を成就するためにはどれほどの勇者になりうるかを学びました。これほどまでに僕を神の目に高めてくださったあなたが、僕から万一にも失われるというのは想像ができません。神がそんな試練を人の子に下される残虐はなさらないのを僕は信じています。そんな試練に堪《た》えるのは人力以上ですから。今の僕からあなたが奪われるというのは神が奪われるのと同じ事です。あなたは神だとはいいますまい。しかしあなたを通してのみ僕は神を拝む事ができるのです。
 時々僕は自分で自分をあわれんでしまう事があります。自分自身だけの力と信仰とですべてのものを見る事ができたらどれほど幸福で自由だろうと考えると、あなたをわずらわさなければ一歩を踏み出す力をも感じ得ない自分の束縛を呪《のろ》いたくもなります。同時にそれほど慕わしい束縛は他にない事を知るのです。束縛のない所に自由はないといった意味であなたの束縛は僕の自由です。
 あなたは――いったん僕に手を与えてくださると約束なさったあなたは、ついに僕を見捨てようとしておられるのですか。どうして一回の音信も恵んではくださらないのです。しかし僕は信じて疑いません。世にもし真理があるならば、そして真理が最後の勝利者ならばあなたは必ず僕に還《かえ》ってくださるに違いないと。なぜなれば、僕は誓います。――主《しゅ》よこの僕《しもべ》を見守りたまえ――僕はあなたを愛して以来断じて他の異性に心を動かさなかった事を。この誠意があなたによって認められないわけはないと思います。
 あなたは従来暗いいくつかの過去を持っています。それが知らず知らずあなたの向上心を躊躇《ちゅうちょ》させ、あなたをや
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