ちゃん」に傍点]と筋目が立っていた。葉子には愛子の沈んだような態度がすっかり[#「すっかり」に傍点]読めた。葉子の憤怒は見る見るその血相を変えさせた。田川夫人という人はどこまで自分に対して執念を寄せようとするのだろう。それにしても夫人の友だちには五十川《いそがわ》という人もあるはずだ。もし五十川のおばさんがほんとうに自分の改悛《かいしゅん》を望んでいてくれるなら、その記事の中止なり訂正なりを、夫《おっと》田川の手を経てさせる事はできるはずなのだ。田島さんもなんとかしてくれようがありそうなものだ。そんな事を妹たちにいうくらいならなぜ自分に一言《ひとこと》忠告でもしてはくれないのだ(ここで葉子は帰朝以来妹たちを預かってもらった礼をしに行っていなかった自分を顧みた。しかし事情がそれを許さないのだろうぐらいは察してくれてもよさそうなものだと思った)それほど自分はもう世間から見くびられ除《の》け者にされているのだ。葉子は何かたたきつけるものでもあれば、そして世間というものが何か形を備えたものであれば、力の限り得物《えもの》をたたきつけてやりたかった。葉子は小刻みに震えながら、言葉だけはしとやかに、
 「古藤さんは」
 「たまにおたよりをくださいます」
 「あなた方《がた》も上げるの」
 「えゝたまに」
 「新聞の事を何かいって来たかい」
 「なんにも」
 「ここの番地は知らせて上げて」
 「いゝえ」
 「なぜ」
 「おねえ様の御迷惑になりはしないかと思って」
 この小娘はもうみんな知っている、と葉子は一種のおそれと警戒とをもって考えた。何事も心得ながら白々《しらじら》しく無邪気を装っているらしいこの妹が敵の間諜《かんちょう》のようにも思えた。
 「今夜はもうお休み。疲れたでしょう」
 葉子は冷然として、灯《ひ》の下にうつむいてきちん[#「きちん」に傍点]とすわっている妹を尻目《しりめ》にかけた。愛子はしとやかに頭を下げて従順に座を立って行った。
 その夜十一時ごろ倉地が下宿のほうから通《かよ》って来た。裏庭をぐるっと回って、毎夜戸じまりをせずにおく張り出しの六畳の間《ま》から上がって来る音が、じれながら鉄びんの湯気《ゆげ》を見ている葉子の神経にすぐ通じた。葉子はすぐ立ち上がって猫《ねこ》のように足音を盗みながら急いでそっちに行った。ちょうど敷居を上がろうとしていた倉地は暗い中に葉子の近づく気配を知って、いつものとおり、立ち上がりざまに葉子を抱擁しようとした。しかし葉子はそうはさせなかった。そして急いで戸を締めきってから、電灯のスイッチをひねった。火の気《け》のない部屋《へや》の中は急に明るくなったけれども身を刺すように寒かった。倉地の顔は酒に酔っているように赤かった。
 「どうした顔色がよくないぞ」
 倉地はいぶかるように葉子の顔をまじまじと見やりながらそういった。
 「待ってください、今わたしここに火鉢《ひばち》を持って来ますから。妹たちが寝ばなだからあすこでは起こすといけませんから」
 そういいながら葉子は手あぶりに火をついで持って来た。そして酒肴《しゅこう》もそこにととのえた。
 「色が悪いはず……今夜はまたすっかり[#「すっかり」に傍点]向かっ腹が立ったんですもの。わたしたちの事が報正新報にみんな出てしまったのを御存じ?」
 「知っとるとも」
 倉地は不思議でもないという顔をして目をしばだたいた。
 「田川の奥さんという人はほんとうにひどい人ね」
 葉子は歯をかみくだくように鳴らしながらいった。
 「全くあれは方図《ほうず》のない利口ばかだ」
 そう吐き捨てるようにいいながら倉地の語る所によると、倉地は葉子に、きっとそのうち掲載される「報正新報」の記事を見せまいために引っ越して来た当座わざと新聞はどれも購読しなかったが、倉地だけの耳へはある男(それは絵島丸の中で葉子の身を上を相談した時、甲斐絹《かいき》のどてら[#「どてら」に傍点]を着て寝床の中に二つに折れ込んでいたその男であるのがあとで知れた。その男は名を正井《まさい》といった)からつやの取り次ぎで内秘《ないひ》に知らされていたのだそうだ。郵船会社はこの記事が出る前から倉地のためにまた会社自身のために、極力もみ消しをしたのだけれども、新聞社ではいっこう応ずる色がなかった。それから考えるとそれは当時新聞社の慣用手段のふところ金《がね》をむさぼろうという目論見《もくろみ》ばかりから来たのでない事だけは明らかになった。あんな記事が現われてはもう会社としても黙ってはいられなくなって、大急ぎで詮議《せんぎ》をした結果、倉地と船医の興録《こうろく》とが処分される事になったというのだ。
 「田川の嬶《かかあ》のいたずらに決まっとる。ばかにくやしかったと見えるて。……が、こうなりゃ結局パッと
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