》をまたたきもしないで見つめながら、
 「えゝ」
 と歯切れ悪く答えるのだった。貞世はじれったそうに愛子の肩をゆすりながら、
 「でもちっとも[#「ちっとも」に傍点]うれしそうじゃないわ」
 と責めるようにいった。
 「でもうれしいんですもの」
 愛子の答えは冷然としていた。十畳の座敷に持ち込まれた行李《こうり》を明けて、よごれ物などを選《よ》り分けていた葉子はその様子をちらと見たばかりで腹が立った。しかし来たばかりのものをたしなめるでもないと思って虫を殺した。
 「なんて静かな所でしょう。塾《じゅく》よりもきっと静かよ。でもこんなに森があっちゃ夜になったらさびしいわねえ。わたしひとりでお便所《はばかり》に行けるかしらん。……愛ねえさん、そら、あすこに木戸があるわ。きっと隣のお庭に行けるのよ。あの庭に行ってもいいのおねえ様。だれのお家《うち》むこうは?……」
 貞世は目にはいるものはどれも珍しいというようにひとりでしゃべっては、葉子にとも愛子にともなく質問を連発した。そこが薔薇《ばら》の花園であるのを葉子から聞かされると、貞世は愛子を誘って庭|下駄《げた》をつっかけた。愛子も貞世に続いてそっちのほうに出かける様子だった。
 その物音を聞くと葉子はもう我慢ができなかった。
 「愛さんお待ち。お前さん方《がた》のものがまだ片づいてはいませんよ。遊び回るのは始末をしてからになさいな」
 愛子は従順に姉の言葉に従って、その美しい目を伏せながら座敷の中にはいって来た。
 それでもその夜の夕食は珍しくにぎやかだった。貞世がはしゃぎきって、胸いっぱいのものを前後も連絡もなくしゃべり[#「しゃべり」に傍点]立てるので愛子さえも思わずにやり[#「にやり」に傍点]と笑ったり、自分の事を容赦なくいわれたりすると恥ずかしそうに顔を赤らめたりした。
 貞世はうれしさに疲れ果てて夜の浅いうちに寝床にはいった。明るい電燈の下に葉子と愛子と向かい合うと、久しくあわないでいた骨肉《こつにく》の人々の間にのみ感ぜられる淡い心置きを感じた。葉子は愛子にだけは倉地の事を少し具体的に知らしておくほうがいいと思って、話のきっかけ[#「きっかけ」に傍点]に少し言葉を改めた。
 「まだあなた方《がた》にお引き合わせがしてないけれども倉地っていう方《かた》ね、絵島丸の事務長の……(愛子は従順に落ち着いてうなずいて見せた)……あの方が今木村さんに成りかわってわたしの世話を見ていてくださるのよ。木村さんからお頼まれになったものだから、迷惑そうにもなく、こんないい家まで見つけてくださったの。木村さんは米国でいろいろ事業を企てていらっしゃるんだけれども、どうもお仕事がうまく行かないで、お金が注《つ》ぎ込みにばかりなっていて、とてもこっちには送ってくだされないの、わたしの家はあなたも知ってのとおりでしょう。どうしてもしばらくの間は御迷惑でも倉地さんに万事を見ていただかなければならないのだから、あなたもそのつもりでいてちょうだいよ。ちょく[#「ちょく」に傍点]ちょくここにも来てくださるからね。それにつけて世間では何かくだらないうわさをしているに違いないが、愛さんの塾《じゅく》なんかではなんにもお聞きではなかったかい」
 「いゝえ、わたしたちに面と向かって何かおっしゃる方《かた》は一人《ひとり》もありませんわ。でも」
 と愛子は例の多恨らしい美しい目を上目《うわめ》に使って葉子をぬすみ見るようにしながら、
 「でも何しろあんな新聞が出たもんですから」
 「どんな新聞?」
 「あらおねえ様御存じなしなの。報正新報に続き物でおねえ様とその倉地という方の事が長く出ていましたのよ」
 「へーえ」
 葉子は自分の無知にあきれるような声を出してしまった。それは実際思いもかけぬというよりは、ありそうな事ではあるが今の今まで知らずにいた、それに葉子はあきれたのだった。しかしそれは愛子の目に自分を非常に無辜《むこ》らしく見せただけの利益はあった。さすがの愛子も驚いたらしい目をして姉の驚いた顔を見やった。
 「いつ?」
 「今月の始めごろでしたかしらん。だもんですから皆さん方《がた》の間ではたいへんな評判らしいんですの。今度も塾《じゅく》を出て来年から姉の所から通いますと田島先生に申し上げたら、先生も家の親類たちに手紙やなんかでだいぶお聞き合わせになったようですのよ。そしてきょうわたしたちを自分のお部屋《へや》にお呼びになって『わたしはお前さん方《がた》を塾から出したくはないけれども、塾に居続ける気はないか』とおっしゃるのよ。でもわたしたちはなんだか塾にいるのが肩身が……どうしてもいやになったもんですから、無理にお願いして帰って来てしまいましたの」
 愛子はふだんの無口に似ずこういう事を話す時にはちゃん[#「
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