いると書いてあります。古藤君はそうした手続きを取るのをはなはだしく不快に思っているようです。岡君は人にもらし得ない家庭内の紛擾《ふんじょう》や周囲から受ける誤解を、岡君らしく過敏に考え過ぎて弱い体質をますます弱くしているようです。書いてある事にはところどころ僕の持つ常識では判断しかねるような所があります。あなたからいつか必ず消息が来るのを信じきって、その時をただ一つの救いとして待っています。その時の感謝と喜悦《きえつ》とを想像で描き出して、小説でも読むように書いてあります。僕は岡君の手紙を読むと、いつでも僕自身の心がそのまま書き現わされているように思って涙を感じます。
なぜあなたは自分をそれほどまで韜晦《とうかい》しておられるのか、それには深いわけがある事と思いますけれども、僕にはどちらの方面から考えても想像がつきません。
日本からの消息はどんな消息も待ち遠しい。しかしそれを見終わった僕はきっと憂鬱《ゆううつ》に襲われます。僕にもし信仰が与えられていなかったら、僕は今どうなっていたかを知りません。
前の手紙との間に三日がたちました。僕はバビコック博士《はかせ》夫婦と今夜ライシアム座にウェルシ嬢の演じたトルストイの「復活」を見物しました。そこにはキリスト教徒として目をそむけなければならないような場面がないではなかったけれども、終わりのほうに近づいて行っての荘厳さは見物人のすべてを捕捉《ほそく》してしまいました。ウェルシ嬢の演じた女主人公は真に迫りすぎているくらいでした。あなたがもしまだ「復活」を読んでいられないのなら僕はぜひそれをお勧めします。僕はトルストイの「懺悔《ざんげ》」をK氏の邦文訳で日本にいる時読んだだけですが、あの芝居《しばい》を見てから、暇があったらもっと深くいろいろ研究したいと思うようになりました。日本ではトルストイの著書はまだ多くの人に知られていないと思いますが、少なくとも「復活」だけは丸善《まるぜん》からでも取り寄せて読んでいただきたい、あなたを啓発する事が必ず多いのは請け合いますから。僕らは等しく神の前に罪人《つみびと》です。しかしその罪を悔い改める事によって等しく選ばれた神の僕《しもべ》となりうるのです。この道のほかには人の子の生活を天国に結び付ける道は考えられません。神を敬い人を愛する心の萎《な》えてしまわないうちにお互いに光を仰ごうではありませんか。
葉子さん、あなたの心に空虚なり汚点なりがあっても万望《どうぞ》絶望しないでくださいよ。あなたをそのままに喜んで受け入れて、――苦しみがあればあなたと共に苦しみ、あなたに悲しみがあればあなたと共に悲しむものがここに一人《ひとり》いる事を忘れないでください。僕は戦って見せます。どんなにあなたが傷ついていても、僕はあなたをかばって勇ましくこの人生を戦って見せます。僕の前に事業が、そして後ろにあなたがあれば、僕は神の最も小さい僕《しもべ》として人類の祝福のために一生をささげます。
あゝ、筆も言語もついに無益です。火と熱する誠意と祈りとをこめて僕はここにこの手紙を封じます。この手紙が倉地氏の手からあなたに届いたら、倉地氏にもよろしく伝えてください。倉地氏に迷惑をおかけした金銭上の事については前便に書いておきましたから見てくださったと思います。願わくは神われらと共に在《おわ》したまわん事を。
明治三十四年十二月十三日」
[#ここで字下げ終わり]
倉地は事業のために奔走しているのでその夜は年越しに来《こ》ないと下宿から知らせて来た。妹たちは除夜の鐘を聞くまでは寝ないなどといっていたがいつのまにかねむくなったと見えて、あまり静かなので二階に行って見ると、二人《ふたり》とも寝床にはいっていた。つやには暇が出してあった。葉子に内所《ないしょ》で「報正新報」を倉地に取り次いだのは、たとい葉子に無益な心配をさせないためだという倉地の注意があったためであるにもせよ、葉子の心持ちを損じもし不安にもした。つやが葉子に対しても素直な敬愛の情をいだいていたのは葉子もよく心得ていた。前にも書いたように葉子は一目見た時からつやが好きだった。台所などをさせずに、小間使いとして手回りの用事でもさせたら顔かたちといい、性質といい、取り回しといいこれほど理想的な少女はないと思うほどだった。つやにも葉子の心持ちはすぐ通じたらしく、つやはこの家のために陰日向《かげひなた》なくせっせ[#「せっせ」に傍点]と働いたのだった。けれども新聞の小さな出来事一つが葉子を不安にしてしまった。倉地が双鶴館《そうかくかん》の女将《おかみ》に対しても気の毒がるのを構わず、妹たちに働かせるのがかえっていいからとの口実のもとに暇をやってしまったのだった。で勝手のほうにも人気《ひとけ》はなかった。
葉子は何を原
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