ふと車が停《と》まって梶棒《かじぼう》がおろされたので葉子ははっ[#「はっ」に傍点]と夢|心地《ごこち》からわれに返った。恐ろしい吹き降りになっていた。車夫が片足で梶棒を踏まえて、風で車のよろめくのを防ぎながら、前幌《まえほろ》をはずしにかかると、まっ暗だった前方からかすかに光がもれて来た。頭の上ではざあざあと降りしきる雨の中に、荒海の潮騒《しおざい》のような物すごい響きが何か変事でもわいて起こりそうに聞こえていた。葉子は車を出ると風に吹き飛ばされそうになりながら、髪や新調の着物のぬれるのもかまわず空を仰いで見た。漆《うるし》を流したような雲で固くとざされた雲の中に、漆《うるし》よりも色濃くむらむらと立ち騒いでいるのは古い杉《すぎ》の木立《こだ》ちだった。花壇らしい竹垣《たけがき》の中の灌木《かんぼく》の類は枝先を地につけんばかりに吹きなびいて、枯れ葉が渦《うず》のようにばらばらと飛び回っていた。葉子はわれにもなくそこにべったり[#「べったり」に傍点]すわり込んでしまいたくなった。
 「おい早くはいらんかよ、ぬれてしまうじゃないか」
 倉地がランプの灯《ひ》をかばいつつ家の中からどなるのが風に吹きちぎられながら聞こえて来た。倉地がそこにいるという事さえ葉子には意外のようだった。だいぶ離れた所でどたん[#「どたん」に傍点]と戸か何かはずれたような音がしたと思うと、風はまた一しきりうなり[#「うなり」に傍点]を立てて杉叢《すぎむら》をこそいで通りぬけた。車夫は葉子を助けようにも梶棒《かじぼう》を離れれば車をけし飛ばされるので、提灯《ちょうちん》の尻《しり》を風上《かざかみ》のほうに斜《しゃ》に向けて目八|分《ぶ》に上げながら何か大声に後ろから声をかけていた。葉子はすごすごとして玄関口に近づいた。一杯きげんで待ちあぐんだらしい倉地の顔の酒ほてりに似ず、葉子の顔は透き通るほど青ざめていた。なよなよとまず敷き台に腰をおろして、十歩ばかり歩くだけで泥《どろ》になってしまった下駄《げた》を、足先で手伝いながら脱ぎ捨てて、ようやく板の間《ま》に立ち上がってから、うつろな目で倉地の顔をじっ[#「じっ」に傍点]と見入った。
 「どうだった寒かったろう。まあこっちにお上がり」
 そう倉地はいって、そこに出合わしていた女中らしい人に手ランプを渡すと華車《きゃしゃ》な少し急な階子段《はしごだ
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