車夫が梶棒《かじぼう》をあげようとする時|女将《おかみ》が祝儀袋をその手に渡すのが見えた。
「さようなら」
「お大事に」
はばかるように車の内外《うちそと》から声がかわされた。幌《ほろ》にのしかかって来る風に抵抗しながら車は闇《やみ》の中を動き出した。
向かい風がうなり[#「うなり」に傍点]を立てて吹きつけて来ると、車夫は思わず車をあおらせて足を止めるほどだった。この四五日|火鉢《ひばち》の前ばかりにいた葉子に取っては身を切るかと思われるような寒さが、厚い膝《ひざ》かけの目まで通して襲って来た。葉子は先ほど女将《おかみ》の言葉を聞いた時にはさほどとも思っていなかったが、少しほどたった今になってみると、それがひしひしと身にこたえるのを感じ出した。自分はひょっ[#「ひょっ」に傍点]とするとあざむかれている、もてあそびものにされている。倉地はやはりどこまでもあの妻子と別れる気はないのだ。ただ長い航海中の気まぐれから、出来心に自分を征服してみようと企てたばかりなのだ。この恋のいきさつ[#「いきさつ」に傍点]が葉子から持ち出されたものであるだけに、こんな心持ちになって来ると、葉子は矢もたてもたまらず自分にひけ目を覚えた。幸福――自分が夢想していた幸福がとうとう来たと誇りがに喜んだその喜びはさもしいぬか喜びに過ぎなかったらしい。倉地は船の中でと同様の喜びでまだ葉子を喜んではいる。それに疑いを入れよう余地はない。けれども美しい貞節な妻と可憐《かれん》な娘を三人まで持っている倉地の心がいつまで葉子にひかされているか、それをだれが語り得よう、葉子の心は幌《ほろ》の中に吹きこむ風の寒さと共に冷えて行った。世の中からきれいに離れてしまった孤独な魂がたった一つそこには見いだされるようにも思えた。どこにうれしさがある、楽しさがある。自分はまた一つの今までに味わわなかったような苦悩の中に身を投げ込もうとしているのだ。またうまうまといたずら者の運命にしてやられたのだ。それにしてももうこの瀬戸ぎわから引く事はできない。死ぬまで……そうだ死んでもこの苦しみに浸りきらずに置くものか。葉子には楽しさが苦しさなのか、苦しさが楽しさなのか、全く見さかいがつかなくなってしまっていた。魂を締め木にかけてその油でもしぼりあげるようなもだえの中にやむにやまれぬ執着を見いだしてわれながら驚くばかりだった。
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