しは身にしみてお察し申しますが、どこから見ても批点の打ちどころのない奥様のお身の上もわたしには御不憫《ごふびん》で涙がこぼれてしまうんでございますよ。でね、これからの事についちゃわたしはこう決めました。なんでもできます事ならと申し上げたいんでございますけれども、わたしには心底《しんそこ》をお打ち明け申しました所、どちら様にも義理が立ちませんから、薄情でもきょうかぎりこのお話には手をひかせていただきます。……どうか悪くお取りになりませんようにね……どうもわたしはこんなでいながら甲斐性《かいしょう》がございませんで……」
そういいながら女将《おかみ》は口をきった時のうれしげな様子にも似ず、襦袢《じゅばん》の袖《そで》を引き出すひまもなく目に涙をいっぱいためてしまっていた。葉子にはそれが恨めしくも憎くもなかった。ただ何となく親身《しんみ》な切《せつ》なさが自分の胸にもこみ上げて来た。
「悪く取るどころですか。世の中の人が一人《ひとり》でもあなたのような心持ちで見てくれたら、わたしはその前に泣きながら頭を下げてありがとうございますという事でしょうよ。これまでのあなたのお心尽くしでわたしはもう充分。またいつか御恩返しのできる事もありましょう。……それではこれで御免くださいまし。お妹御《いもうとご》にもどうか着物のお礼をくれぐれもよろしく」
少し泣き声になってそういいながら、葉子は女将《おかみ》とその妹|分《ぶん》にあたるという人に礼心《れいごころ》に置いて行こうとする米国製の二つの手携《てさ》げをしまいこんだ違《ちが》い棚《だな》をちょっと見やってそのまま座を立った。
雨風のために夜はにぎやかな往来もさすがに人通りが絶え絶《だ》えだった。車に乗ろうとして空を見上げると、雲はそう濃くはかかっていないと見えて、新月の光がおぼろに空を明るくしている中をあらし模様の雲が恐ろしい勢いで走っていた。部屋《へや》の中の暖かさに引きかえて、湿気を充分に含んだ風は裾前《すそまえ》をあおってぞくぞくと膚に逼《せま》った。ばたばたと風になぶられる前幌《まえほろ》を車夫がかけようとしているすきから、女将《おかみ》がみずみずしい丸髷《まるまげ》を雨にも風にも思うまま打たせながら、女中のさしかざそうとする雨傘《あまがさ》の陰に隠れようともせず、何か車夫にいい聞かせているのが大事らしく見やられた。
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