まで生きているのはいやだ。それにしてもこんな幸福でさえがいつかは下り坂になる時があるのだろうか」
そんな事を葉子は幸福に浸りきった夢心地の中に考えた。
葉子が東京に着いてから一週間目に、宿の女将《おかみ》の周旋で、芝《しば》の紅葉館《こうようかん》と道一つ隔てた苔香園《たいこうえん》という薔薇《ばら》専門の植木屋の裏にあたる二階建ての家を借りる事になった。それは元紅葉館の女中だった人がある豪商の妾《めかけ》になったについて、その豪商という人が建ててあてがった一構《ひとかま》えだった。双鶴館《そうかくかん》の女将《おかみ》はその女と懇意の間だったが、女に子供が幾人かできて少し手ぜま過ぎるので他所《よそ》に移転しようかといっていたのを聞き知っていたので、女将のほうで適当な家をさがし出してその女を移らせ、そのあとを葉子が借りる事に取り計らってくれたのだった。倉地が先に行って中の様子を見て来て、杉林《すぎばやし》のために少し日当たりはよくないが、当分の隠れ家《が》としては屈強だといったので、すぐさまそこに移る事に決めたのだった。だれにも知れないように引っ越さねばならぬというので、荷物を小わけして持ち出すのにも、女将《おかみ》は自分の女中たちにまで、それが倉地の本宅に運ばれるものだといって知らせた。運搬人はすべて芝《しば》のほうから頼んで来た。そして荷物があらかた[#「あらかた」に傍点]片づいた所で、ある夜おそく、しかもびしょびしょと吹き降りのする寒い雨風のおりを選んで葉子は幌車《ほろぐるま》に乗った。葉子としてはそれほどの警戒をするには当たらないと思ったけれども、女将《おかみ》がどうしてもきかなかった。安全な所に送り込むまではいったんお引き受けした手まえ、気がすまないといい張った。
葉子があつらえておいた仕立ておろしの衣類を着かえているとそこに女将《おかみ》も来合わせて脱ぎ返しの世話を見た。襟《えり》の合わせ目をピンで留めながら葉子が着がえを終えて座につくのを見て、女将はうれしそうにもみ手をしながら、
「これであすこに大丈夫着いてくださりさえすればわたしは重荷が一つ降りると申すものです。しかしこれからがあなたは御大抵《ごたいてい》じゃこざいませんね。あちらの奥様の事など思いますと、どちらにどうお仕向けをしていいやらわたしにはわからなくなります。あなたのお心持ちもわた
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