物さえ目に触れれば、葉子の心はおびえながらもはっ[#「はっ」に傍点]と高鳴った。薬局の前を通るとずらっ[#「ずらっ」に傍点]とならんだ薬びんが誘惑のように目を射た。看護婦が帽子を髪にとめるための長い帽子ピン、天井の張ってない湯殿《ゆどの》の梁《はり》、看護婦室に薄赤い色をして金《かな》だらいにたたえられた昇汞水《しょうこうすい》、腐敗した牛乳、剃刀《かみそり》、鋏《はさみ》、夜ふけなどに上野《うえの》のほうから聞こえて来る汽車の音、病室からながめられる生理学教室の三階の窓、密閉された部屋《へや》、しごき帯、……なんでもかでもが自分の肉を喰《は》む毒蛇《どくじゃ》のごとく鎌首《かまくび》を立てて自分を待ち伏せしているように思えた。ある時はそれらをこの上なく恐ろしく、ある時はまたこの上なく親しみ深くながめやった。一匹の蚊にさされた時さえそれがマラリヤを伝える種類であるかないかを疑ったりした。
 「もう自分はこの世の中に何の用があろう。死にさえすればそれで事は済むのだ。この上自身も苦しみたくない。他人も苦しめたくない。いやだいやだと思いながら自分と他人とを苦しめているのが堪《た》えられない。眠りだ。長い眠りだ。それだけのものだ」
 と貞世の寝息をうかがいながらしっかり[#「しっかり」に傍点]思い込むような時もあったが、同時に倉地がどこかで生きているのを考えると、たちまち燕返《つばめがえ》しに死から生のほうへ、苦しい煩悩《ぼんのう》の生のほうへ激しく執着して行った。倉地の生きてる間に死んでなるものか……それは死よりも強い誘惑だった。意地《いじ》にかけても、肉体のすべての機関がめちゃめちゃになっても、それでも生きていて見せる。……葉子はそしてそのどちらにもほんとうの決心のつかない自分にまた苦しまねばならなかった。
 すべてのものを愛しているのか憎んでいるのかわからなかった。貞世に対してですらそうだった。葉子はどうかすると、熱に浮かされて見さかいのなくなっている貞世を、継母《ままはは》がまま子をいびり抜くように没義道《もぎどう》に取り扱った。そして次の瞬間には後悔しきって、愛子の前でも看護婦の前でも構わずにおいおいと泣きくずおれた。
 貞世の病状は悪くなるばかりだった。
 ある時伝染病室の医長が来て、葉子が今のままでいてはとても健康が続かないから、思いきって手術をしたらどうだと
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