「おねえ様なの……いつ帰って来たの。おかあ様がさっきいらしってよ……いやおねえ様、病院いや帰る帰る……おかあ様おかあ様(そういってきょろ[#「きょろ」に傍点]きょろとあたりを見回しながら)帰らしてちょうだいよう。お家《うち》に早く、おかあ様のいるお家《うち》に早く……」
 葉子は思わず毛孔《けあな》が一本一本|逆立《さかだ》つほどの寒気《さむけ》を感じた。かつて母という言葉もいわなかった貞世の口から思いもかけずこんな事を聞くと、その部屋のどこかにぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]立っている母が感ぜられるように思えた。その母の所に貞世は行きたがってあせっている。なんという深いあさましい骨肉《こつにく》の執着だろう。
 看護婦が行ってしまうとまた病室の中はしん[#「しん」に傍点]となってしまった。なんともいえず可憐《かれん》な澄んだ音を立てて水たまりに落ちる雨《あま》だれの音はなお絶え間なく聞こえ続けていた。葉子は泣くにも泣かれないような心になって、苦しい呼吸をしながらもうつら[#「うつら」に傍点]うつらと生死の間を知らぬげに眠る貞世の顔をのぞき込んでいた。
 と、雨だれの音にまじって遠くのほうに車の轍《わだち》の音を聞いたように思った。もう目をさまして用事をする人もあるかと、なんだか違った世界の出来事のようにそれを聞いていると、その音はだんだん病室のほうに近寄って来た。……愛子ではないか……葉子は愕然《がくぜん》として夢からさめた人のようにきっ[#「きっ」に傍点]となってさらに耳をそばだてた。
 もうそこには死生を瞑想《めいそう》して自分の妄執《もうしゅう》のはかなさをしみじみと思いやった葉子はいなかった。我執のために緊張しきったその目は怪しく輝いた。そして大急ぎで髪のほつれをかき上げて、鏡に顔を映しながら、あちこちと指先で容子《ようす》を整えた。衣紋《えもん》もなおした。そしてまたじっ[#「じっ」に傍点]と玄関のほうに聞き耳を立てた。
 はたして玄関の戸のあく音が聞こえた。しばらく廊下がごた[#「ごた」に傍点]ごたする様子だったが、やがて二三人の足音が聞こえて、貞世の病室の戸がしめやか[#「しめやか」に傍点]に開かれた。葉子はそのしめやか[#「しめやか」に傍点]さでそれは岡が開いたに違いない事を知った。やがて開かれた戸口から岡にちょっと挨拶《あいさつ》しながら愛子
前へ 次へ
全233ページ中191ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング