っているのを見ると葉子はもうたまらなくなった。涙がぽろぽろとたわいもなく流れ落ちた。家の中では定子の声がしなかった。葉子は気を落ち着けるために案内を求めずに入り口に立ったまま、そっと垣根《かきね》から庭をのぞいて見ると、日あたりのいい縁側に定子がたった一人《ひとり》、葉子にはしごき帯を長く結んだ後ろ姿を見せて、一心不乱にせっせ[#「せっせ」に傍点]と少しばかりのこわれおもちゃをいじくり回していた。何事にまれ真剣な様子を見せつけられると、――わき目もふらず畑を耕す農夫、踏み切りに立って子を背負ったまま旗をかざす女房《にょうぼう》、汗をしとどにたらしながら坂道に荷車を押す出稼《ともかせ》ぎの夫婦――わけもなく涙につまされる葉子は、定子のそうした姿を一目見たばかりで、人間力ではどうする事もできない悲しい出来事にでも出あったように、しみじみとさびしい心持ちになってしまった。
 「定《さあ》ちゃん」
 涙を声にしたように葉子は思わず呼んだ。定子がびっくりして後ろを振り向いた時には、葉子は戸をあけて入り口を駆け上がって定子のそばにすり寄っていた。父に似たのだろう痛々しいほど華車《きゃしゃ》作りな定子は、どこにどうしてしまったのか、声も姿も消え果てた自分の母が突然そば近くに現われたのに気を奪われた様子で、とみには声も出さずに驚いて葉子を見守った。
 「定《さあ》ちゃんママだよ。よく丈夫でしたね。そしてよく一人でおとなにして……」
 もう声が続かなかった。
 「ママちゃん」
 そう突然大きな声でいって定子は立ち上がりざま台所のほうに駆けて行った。
 「婆《ばあ》やママちゃんが来たのよ」
 という声がした。
 「え!」
 と驚くらしい婆やの声が裏庭から聞こえた。と、あわてたように台所を上がって、定子を横抱きにした婆やが、かぶっていた手ぬぐいを頭《つむり》からはずしながらころがり込むようにして座敷にはいって来た。二人は向き合ってすわると両方とも涙ぐみながら無言で頭を下げた。
 「ちょっと定ちゃんをこっちにお貸し」
 しばらくしてから葉子は定子を婆《ばあ》やの膝《ひざ》から受け取って自分のふところに抱きしめた。
 「お嬢さま……私にはもう何がなんだかちっとも[#「ちっとも」に傍点]わかりませんが、私はただもうくやしゅうございます。……どうしてこう早くお帰りになったんでございますか……皆様
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