のおっしゃる事を伺っているとあんまり[#「あんまり」に傍点]業腹《ごうはら》でございますから……もう私は耳をふさいでおります。あなたから伺ったところがどうせこう年を取りますと腑《ふ》に落ちる気づかいはございません。でもまあおからだがどうかと思ってお案じ申しておりましたが、御丈夫で何よりでございました……何しろ定子様がおかわいそうで……」
葉子におぼれきった婆やの口からさもくやしそうにこうした言葉がつぶやかれるのを、葉子はさびしい心持ちで聞かねばならなかった。耄碌《もうろく》したと自分ではいいながら、若い時に亭主《ていしゅ》に死に別れて立派に後家《ごけ》を通して後ろ指一本さされなかった昔気質《むかしかたぎ》のしっかり[#「しっかり」に傍点]者だけに、親類たちの陰口やうわさで聞いた葉子の乱行にはあきれ果てていながら、この世でのただ一人《ひとり》の秘蔵物として葉子の頭から足の先までも自分の誇りにしている婆やの切《せつ》ない心持ちは、ひしひしと葉子にも通じるのだった。婆やと定子……こんな純粋な愛情の中に取り囲まれて、落ち着いた、しとやか[#「しとやか」に傍点]な、そして安穏な一生を過ごすのも、葉子は望ましいと思わないではなかった。ことに婆やと定子とを目の前に置いて、つつましやかな過不足のない生活をながめると、葉子の心は知らず知らずなじんで行くのを覚えた。
しかし同時に倉地の事をちょっとでも思うと葉子の血は一時にわき立った。平穏な、その代わり死んだも同然な一生がなんだ。純粋な、その代わり冷えもせず熱しもしない愛情がなんだ。生きる以上は生きてるらしく生きないでどうしよう。愛する以上は命と取りかえっこをするくらいに愛せずにはいられない。そうした衝動が自分でもどうする事もできない強い感情になって、葉子の心を本能的に煽《あお》ぎ立てるのだった。この奇怪な二つの矛盾が葉子の心の中には平気で両立しようとしていた。葉子は眼前の境界でその二つの矛盾を割合に困難もなく使い分ける不思議な心の広さを持っていた。ある時には極端に涙もろく、ある時には極端に残虐だった。まるで二人《ふたり》の人が一つの肉体に宿っているかと自分ながら疑うような事もあった。それが時にはいまいましかった、時には誇らしくもあった。
「定《さあ》ちゃま。ようこざいましたね、ママちゃんが早くお帰りになって。お立ちになってからで
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