までかぶった。そしてだいぶ夜がふけてから倉地が寝に来るまで快い安眠に前後を忘れていた。

    二四

 その次の朝女将と話をしたり、呉服屋を呼んだりしたので、日がかなり高くなるまで宿にいた葉子は、いやいやながら例のけばけばしい綿入れを着て、羽織《はおり》だけは女将が借りてくれた、妹分という人の烏羽黒《うばぐろ》の縮緬《ちりめん》の紋付きにして旅館を出た。倉地は昨夜の夜《よ》ふかしにも係わらずその朝早く横浜のほうに出かけたあとだった。きょうも空は菊|日和《びより》とでもいう美しい晴れかたをしていた。
 葉子はわざと宿で車を頼んでもらわずに、煉瓦《れんが》通りに出てからきれいそうな辻待《つじま》ちを傭《やと》ってそれに乗った。そして池《いけ》の端《はた》のほうに車を急がせた。定子を目の前に置いて、その小さな手をなでたり、絹糸のような髪の毛をもてあそぶ事を思うと葉子の胸はわれにもなくただわくわくとせき込んで来た。眼鏡橋《めがねばし》を渡ってから突き当たりの大時計は見えながらなかなかそこまで車が行かないのをもどかしく思った。膝《ひざ》の上に乗せた土産《みやげ》のおもちゃや小さな帽子などをやきもき[#「やきもき」に傍点]しながらひねり回したり、膝掛《ひざか》けの厚い地《じ》をぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]と握り締めたりして、はやる心を押ししずめようとしてみるけれどもそれをどうする事もできなかった。車がようやく池の端に出ると葉子は右、左、と細い道筋の角々《かどかど》でさしずした。そして岩崎《いわさき》の屋敷裏にあたる小さな横町の曲がりかどで車を乗り捨てた。
 一か月の間《あいだ》来ないだけなのだけれども、葉子にはそれが一年にも二年にも思われたので、その界隈《かいわい》が少しも変化しないで元のとおりなのがかえって不思議なようだった。じめじめした小溝《こみぞ》に沿うて根ぎわの腐れた黒板塀《くろいたべい》の立ってる小さな寺の境内《けいだい》を突っ切って裏に回ると、寺の貸し地面にぽっつり[#「ぽっつり」に傍点]立った一|戸建《こだ》ての小家が乳母《うば》の住む所だ。没義道《もぎどう》に頭を切り取られた高野槇《こうやまき》が二本|旧《もと》の姿で台所前に立っている、その二本に干《ほ》し竿《ざお》を渡して小さな襦袢《じゅばん》や、まる洗いにした胴着《どうぎ》が暖かい日の光を受けてぶら下が
前へ 次へ
全233ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング