われてこそこそと逃げ出すわけにも行かないし」
 「おれが一つ顔を出して見せればまたおもしろかったにな」
 「きょうは妙な人にあってしまったからまたきっとだれかにあいますよ。奇妙ねえ、お客様が来たとなると不思議にたて続くし……」
 「不仕合わせなんぞも来出すと束《たば》になって来くさるて」
 倉地は何か心ありげにこういって渋い顔をしながらこの笑い話を結んだ。
 葉子はけさの発作《ほっさ》の反動のように、田川夫人の事があってからただ何となく心が浮き浮きしてしようがなかった。もしそこに客がいなかったら、葉子は子供のように単純な愛矯者《あいきょうもの》になって、倉地に渋い顔ばかりはさせておかなかったろう。「どうして世の中にはどこにでも他人の邪魔に来ましたといわんばかりにこうたくさん人がいるんだろう」と思ったりした。それすらが葉子には笑いの種《たね》となった。自分たちの向こう座にしかつめらしい顔をして老年の夫婦者がすわっているのを、葉子はしばらくまじ[#「まじ」に傍点]まじと見やっていたが、その人たちのしかつめらしいのが無性《むしょう》にグロテスクな不思議なものに見え出して、とうとう我慢がしきれずに、ハンケチを口にあててきゅっ[#「きゅっ」に傍点]きゅっとふき出してしまった。

    三七

 天心に近くぽつり[#「ぽつり」に傍点]と一つ白くわき出た雲の色にも形にもそれと知られるようなたけなわな春が、ところどころの別荘の建て物のほかには見渡すかぎり古く寂《さ》びれた鎌倉《かまくら》の谷々《やとやと》にまであふれていた。重い砂土の白ばんだ道の上には落ち椿《つばき》が一重《ひとえ》桜の花とまじって無残に落ち散っていた。桜のこずえには紅味《あかみ》を持った若葉がきらきらと日に輝いて、浅い影を地に落とした。名もない雑木《ぞうき》までが美しかった。蛙《かわず》の声が眠く田圃《たんぼ》のほうから聞こえて来た。休暇でないせいか、思いのほかに人の雑鬧《ざっとう》もなく、時おり、同じ花かんざしを、女は髪に男は襟《えり》にさして先達《せんだつ》らしいのが紫の小旗《こばた》を持った、遠い所から春を逐《お》って経《へ》めぐって来たらしい田舎《いなか》の人たちの群れが、酒の気も借らずにしめやか[#「しめやか」に傍点]に話し合いながら通るのに行きあうくらいのものだった。
 倉地も汽車の中から自然に気分
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