行きたいと思います。僕は少し人並みはずれてばかのようだけれども、ばか者でさえがそうして行きたいと思ってるんです」
 古藤は目に涙をためて痛ましげに葉子を見やった。その時電灯が急に部屋《へや》を明るくした。
 「あなたはほんとうにどこか悪いようですね。早くなおってください。それじゃ僕はこれできょうは御免をこうむります。さようなら」
 牝鹿《めじか》のように敏感な岡さえがいっこう注意しない葉子の健康状態を、鈍重らしい古藤がいち早く見て取って案じてくれるのを見ると、葉子はこの素朴《そぼく》な青年になつかし味を感ずるのだった。葉子は立って行く古藤の後ろから、
 「愛さん貞《さあ》ちゃん古藤さんがお帰りになるといけないから早く来ておとめ申しておくれ」
 と叫んだ。玄関に出た古藤の所に台所口から貞世が飛んで来た。飛んで来はしたが、倉地に対してのようにすぐおどりかかる事は得しないで、口もきかずに、少し恥ずかしげにそこに立ちすくんだ。そのあとから愛子が手ぬぐいを頭から取りながら急ぎ足で現われた。玄関のなげしの所に照り返しをつけて置いてあるランプの光をまとも[#「まとも」に傍点]に受けた愛子の顔を見ると、古藤は魅いられたようにその美に打たれたらしく、目礼もせずにその立ち姿にながめ入った。愛子はにこり[#「にこり」に傍点]と左の口じりに笑《え》くぼの出る微笑を見せて、右手の指先が廊下の板にやっとさわるほど膝《ひざ》を折って軽く頭を下げた。愛子の顔には羞恥《しゅうち》らしいものは少しも現われなかった。
 「いけません、古藤さん。妹たちが御恩返しのつもりで一生懸命にしたんですから、おいしくはありませんが、ぜひ、ね。貞《さあ》ちゃんお前さんその帽子と剣とを持ってお逃げ」
 葉子にそういわれて貞世はすばしこく帽子だけ取り上げてしまった。古藤はおめおめと居残る事になった。
 葉子は倉地をも呼び迎えさせた。
 十二畳の座敷にはこの家に珍しくにぎやかな食卓がしつらえられた。五人がおのおの座について箸《はし》を取ろうとする所に倉地がはいって来た。
 「さあいらっしゃいまし、今夜はにぎやかですのよ。ここへどうぞ(そう云って古藤の隣の座を目で示した)。倉地さん、この方《かた》がいつもおうわさをする木村の親友の古藤義一さんです。きょう珍しくいらしってくださいましたの。これが事務長をしていらしった倉地三吉さん
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