に葉子の近づく気配を知って、いつものとおり、立ち上がりざまに葉子を抱擁しようとした。しかし葉子はそうはさせなかった。そして急いで戸を締めきってから、電灯のスイッチをひねった。火の気《け》のない部屋《へや》の中は急に明るくなったけれども身を刺すように寒かった。倉地の顔は酒に酔っているように赤かった。
「どうした顔色がよくないぞ」
倉地はいぶかるように葉子の顔をまじまじと見やりながらそういった。
「待ってください、今わたしここに火鉢《ひばち》を持って来ますから。妹たちが寝ばなだからあすこでは起こすといけませんから」
そういいながら葉子は手あぶりに火をついで持って来た。そして酒肴《しゅこう》もそこにととのえた。
「色が悪いはず……今夜はまたすっかり[#「すっかり」に傍点]向かっ腹が立ったんですもの。わたしたちの事が報正新報にみんな出てしまったのを御存じ?」
「知っとるとも」
倉地は不思議でもないという顔をして目をしばだたいた。
「田川の奥さんという人はほんとうにひどい人ね」
葉子は歯をかみくだくように鳴らしながらいった。
「全くあれは方図《ほうず》のない利口ばかだ」
そう吐き捨てるようにいいながら倉地の語る所によると、倉地は葉子に、きっとそのうち掲載される「報正新報」の記事を見せまいために引っ越して来た当座わざと新聞はどれも購読しなかったが、倉地だけの耳へはある男(それは絵島丸の中で葉子の身を上を相談した時、甲斐絹《かいき》のどてら[#「どてら」に傍点]を着て寝床の中に二つに折れ込んでいたその男であるのがあとで知れた。その男は名を正井《まさい》といった)からつやの取り次ぎで内秘《ないひ》に知らされていたのだそうだ。郵船会社はこの記事が出る前から倉地のためにまた会社自身のために、極力もみ消しをしたのだけれども、新聞社ではいっこう応ずる色がなかった。それから考えるとそれは当時新聞社の慣用手段のふところ金《がね》をむさぼろうという目論見《もくろみ》ばかりから来たのでない事だけは明らかになった。あんな記事が現われてはもう会社としても黙ってはいられなくなって、大急ぎで詮議《せんぎ》をした結果、倉地と船医の興録《こうろく》とが処分される事になったというのだ。
「田川の嬶《かかあ》のいたずらに決まっとる。ばかにくやしかったと見えるて。……が、こうなりゃ結局パッと
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