くれでないか」
葉子はまたかと思った。働きのない良人《おっと》に連れ添って、十五年の間《あいだ》丸帯一つ買ってもらえなかった叔母の訓練のない弱い性格が、こうさもしくなるのをあわれまないでもなかったが、物怯《ものお》じしながら、それでいて、欲にかかるとずうずうしい、人のすきばかりつけねらう仕打ちを見ると、虫唾《むしず》が走るほど憎かった。しかしこんな思いをするのもきょうだけだと思って部屋の中に案内した。叔母は空々《そらぞら》しく気の毒だとかすまないとかいい続けながら錠をおろした箪笥《たんす》を一々あけさせて、いろいろと勝手に好みをいった末に、りゅう[#「りゅう」に傍点]とした一揃《ひとそろ》えを借る事にして、それから葉子の衣類までをとやかくいいながら去りがてにいじくり回した。台所からは、みそ汁《しる》の香《にお》いがして、白痴の子がだらしなく泣き続ける声と、叔父《おじ》が叔母を呼び立てる声とが、すがすがしい朝の空気を濁すように聞こえて来た。葉子は叔母にいいかげんな返事をしながらその声に耳を傾けていた。そして早月家の最後の離散という事をしみじみと感じたのであった。電話はある銀行の重役をしている親類がいいかげんな口実《こうじつ》を作って只《ただ》持って行ってしまった。父の書斎道具や骨董品《こっとうひん》は蔵書と一緒に糶売《せりう》りをされたが、売り上げ代はとうとう葉子の手にははいらなかった。住居《すまい》は住居で、葉子の洋行後には、両親の死後何かに尽力したという親類の某が、二束三文《にそくさんもん》で譲り受ける事に親族会議で決まってしまった。少しばかりある株券と地所《じしょ》とは愛子と貞世《さだよ》との教育費にあてる名儀で某々が保管する事になった。そんな勝手放題なまねをされるのを葉子は見向きもしないで黙っていた。もし葉子が素直《すなお》な女だったら、かえって食い残しというほどの遺産はあてがわれていたに違いない。しかし親族会議では葉子を手におえない女だとして、他所《よそ》に嫁入って行くのをいい事に、遺産の事にはいっさい関係させない相談をしたくらいは葉子はとうに感づいていた。自分の財産となればなるべきものを一部分だけあてがわれて、黙って引っ込んでいる葉子ではなかった。それかといって長女ではあるが、女の身として全財産に対する要求をする事の無益なのも知っていた。で「犬にやるつもりでいよう」と臍《ほぞ》を堅めてかかったのだった。今、あとに残チたものは何がある。切り回しよく見かけを派手《はで》にしている割合に、不足がちな三人の姉妹の衣類諸道具が少しばかりあるだけだ。それを叔母は容赦もなくそこまで切り込んで来ているのだ。白紙のようなはかない寂しさと、「裸になるならきれいさっぱり[#「さっぱり」に傍点]裸になって見せよう」という火のような反抗心とが、むちゃくちゃに葉子の胸を冷やしたり焼いたりした。葉子はこんな心持ちになって、先ほどの手紙の包みをかかえて立ち上がりながら、うつむいて手ざわりのいい絹物をなで回している叔母を見おろした。
「それじゃわたしまだほかに用がありますししますから錠をおろさずにおきますよ。ごゆっくり御覧なさいまし。そこにかためてあるのはわたしが持って行くんですし、ここにあるのは愛と貞にやるのですから別になすっておいてください」
といい捨てて、ずんずん部屋《へや》を出た。往来には砂ほこりが立つらしく風が吹き始めていた。
二階に上がって見ると、父の書斎であった十六畳の隣の六畳に、愛子と貞世とが抱き合って眠っていた。葉子は自分の寝床を手早くたたみながら愛子を呼び起こした。愛子は驚いたように大きな美しい目を開くと半分夢中で飛び起きた。葉子はいきなり[#「いきなり」に傍点]厳重な調子で、
「あなたはあすからわたしの代わりをしないじゃならないんですよ。朝寝坊なんぞしていてどうするの。あなたがぐず[#「ぐず」に傍点]ぐずしていると貞ちゃんがかわいそうですよ。早く身じまいをして下のお掃除《そうじ》でもなさいまし」
とにらみつけた。愛子は羊のように柔和な目をまばゆそうにして、姉をぬすみ見ながら、着物を着かえて下に降りて行った。葉子はなんとなく性《しょう》の合わないこの妹が、階子段《はしごだん》を降りきったのを聞きすまして、そっと貞世のほうに近づいた。面《おも》ざしの葉子によく似た十三の少女は、汗じみた顔には下げ髪がねばり付いて、頬《ほお》は熱でもあるように上気している。それを見ると葉子は骨肉《こつにく》のいとしさに思わずほほえませられて、その寝床にいざり寄って、その童女を羽《は》がいに軽く抱きすくめた。そしてしみじみとその寝顔にながめ入った。貞世の軽い呼吸は軽く葉子の胸に伝わって来た。その呼吸が一つ伝わるたびに、葉子の心は妙にめいって行った。同じ胎《はら》を借りてこの世に生まれ出た二人《ふたり》の胸には、ひたと共鳴する不思議な響きが潜んでいた。葉子は吸い取られるようにその響きに心を集めていたが、果ては寂しい、ただ寂しい涙がほろほろととめどなく流れ出るのだった。
一家の離散を知らぬ顔で、女の身そらをただひとり米国の果てまでさすらって行くのを葉子は格別なんとも思っていなかった。振り分け髪の時分から、飽くまで意地《いじ》の強い目はしのきく性質を思うままに増長さして、ぐんぐんと世の中をわき目もふらず押し通して二十五になった今、こんな時にふと過去を振り返って見ると、いつのまにかあたりまえの女の生活をすりぬけて、たった一人《ひとり》見も知らぬ野ずえに立っているような思いをせずにはいられなかった。女学校や音楽学校で、葉子の強い個性に引きつけられて、理想の人ででもあるように近寄って来た少女たちは、葉子におど[#「おど」に傍点]おどしい同性の恋をささげながら、葉子に inspire されて、われ知らず大胆な奔放な振る舞いをするようになった。そのころ「国民文学」や「文学界」に旗挙《はたあ》げをして、新しい思想運動を興そうとした血気なロマンティックな青年たちに、歌の心を授けた女の多くは、おおかた葉子から血脈を引いた少女らであった。倫理学者や、教育家や、家庭の主権者などもそのころから猜疑《さいぎ》の目を見張って少女国を監視し出した。葉子の多感な心は、自分でも知らない革命的ともいうべき衝動のためにあてもなく揺《ゆる》ぎ始めた。葉子は他人を笑いながら、そして自分をさげすみながら、まっ暗な大きな力に引きずられて、不思議な道に自覚なく迷い入って、しまいにはまっしぐらに走り出した。だれも葉子の行く道のしるべをする人もなく、他の正しい道を教えてくれる人もなかった。たまたま大きな声で呼び留める人があるかと思えば、裏表《うらおもて》の見えすいたぺてん[#「ぺてん」に傍点]にかけて、昔のままの女であらせようとするものばかりだった。葉子はそのころからどこか外国に生まれていればよかったと思うようになった。あの自由らしく見える女の生活、男と立ち並んで自分を立てて行く事のできる女の生活……古い良心が自分の心をさいなむたびに、葉子は外国人の良心というものを見たく思った。葉子は心の奥底でひそかに芸者《げいしゃ》をうらやみもした。日本で女が女らしく生きているのは芸者だけではないかとさえ思った。こんな心持ちで年を取って行く間《あいだ》に葉子はもちろんなんどもつまずいてころんだ。そしてひとりで膝《ひざ》の塵《ちり》を払わなければならなかった。こんな生活を続けて二十五になった今、ふと今まで歩いて来た道を振り返って見ると、いっしょに葉子と走っていた少女たちは、とうの昔に尋常な女になり済ましていて、小さく見えるほど遠くのほうから、あわれむようなさげすむような顔つきをして、葉子の姿をながめていた。葉子はもと来た道に引き返す事はもうできなかった。できたところで引き返そうとする気はみじんもなかった。「勝手にするがいい」そう思って葉子はまたわけもなく不思議な暗い力に引っぱられた。こういうはめ[#「はめ」に傍点]になった今、米国にいようが日本にいようが少しばかりの財産があろうが無かろうが、そんな事は些細《ささい》な話だった。境遇でも変わったら何か起こるかもしれない。元のままかもしれない。勝手になれ。葉子を心の底から動かしそうなものは一つも身近《みぢか》には見当たらなかった。
しかし一つあった。葉子の涙はただわけもなくほろほろと流れた。貞世は何事も知らずに罪なく眠りつづけていた。同じ胎《はら》を借りてこの世に生まれ出た二人《ふたり》の胸には、ひたと共鳴する不思議な響きが潜んでいた。葉子は吸い取られるようにその響きに心を集めていたが、この子もやがては自分が通って来たような道を歩くのかと思うと、自分をあわれむとも妹をあわれむとも知れない切《せつ》ない心に先だたれて、思わずぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]と貞世を抱きしめながら物をいおうとした。しかし何をいい得ようぞ。喉《のど》もふさがってしまっていた。貞世は抱きしめられたので始めて大きく目を開いた。そしてしばらくの間、涙にぬれた姉の顔をまじまじとながめていたが、やがて黙ったまま小さい袖《そで》でその涙をぬぐい始めた。葉子の涙は新しくわき返った。貞世は痛ましそうに姉の涙をぬぐいつづけた。そしてしまいにはその袖を自分の顔に押しあてて何か言い言いしゃくり上げながら泣き出してしまった。
七
葉子はその朝横浜の郵船会社の永田から手紙を受け取った。漢学者らしい風格の、上手《じょうず》な字で唐紙牋《とうしせん》に書かれた文句には、自分は故早月氏には格別の交誼《こうぎ》を受けていたが、あなたに対しても同様の交際を続ける必要のないのを遺憾に思う。明晩(すなわちその夜)のお招きにも出席しかねる、と剣《けん》もほろろに書き連ねて、追伸《ついしん》に、先日あなたから一|言《ごん》の紹介もなく訪問してきた素性《すじょう》の知れぬ青年の持参した金はいらないからお返しする。良人《おっと》の定まった女の行動は、申すまでもないが慎むが上にもことに慎むべきものだと私どもは聞き及んでいる。ときっぱり書いて、その金額だけの為替《かわせ》が同封してあった。葉子が古藤を連れて横浜に行ったのも、仮病《けびょう》をつかって宿屋に引きこもったのも、実をいうと船商売をする人には珍しい厳格なこの永田に会うめんどうを避けるためだった。葉子は小さく舌打ちして、為替ごと手紙を引き裂こうとしたが、ふと思い返して、丹念《たんねん》に墨をすりおろして一字一字考えて書いたような手紙だけずた[#「ずた」に傍点]ずたに破いて屑《くず》かごに突っ込んだ。
葉子は地味《じみ》な他行衣《よそいき》に寝衣《ねまき》を着かえて二階を降りた。朝食は食べる気がなかった。妹たちの顔を見るのも気づまりだった。
姉妹三人のいる二階の、すみからすみまできちん[#「きちん」に傍点]と小ぎれいに片付いているのに引きかえて、叔母《おば》一家の住まう下座敷は変に油ぎってよごれていた。白痴の子が赤ん坊同様なので、東の縁に干してある襁褓《むつき》から立つ塩臭いにおいや、畳の上に踏みにじられたままこびりついている飯粒などが、すぐ葉子の神経をいらいらさせた。玄関に出て見ると、そこには叔父《おじ》が、襟《えり》のまっ黒に汗じんだ白い飛白《かすり》を薄寒そうに着て、白痴の子を膝《ひざ》の上に乗せながら、朝っぱらから柿《かき》をむいてあてがっていた。その柿の皮があかあかと紙くずとごったになって敷き石の上に散っていた。葉子は叔父にちょっと挨拶《あいさつ》をして草履《ぞうり》をさがしながら、
「愛さんちょっとここにおいで。玄関が御覧、あんなによごれているからね、きれいに掃除《そうじ》しておいてちょうだいよ。――今夜はお客様もあるんだのに……」
と駆けて来た愛子にわざとつんけん[#「つんけん」に傍点]いうと、叔父は神経の遠くのほうであてこすられたのを感じたふうで、
「おヽ、それはわしがしたんじゃで、わしが掃除しとく。構《かも》うてくださるな、おい
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