しん》の正直ななんとかだとおっしゃった木村に縁づくようになったのも、その晩の事です。五十川《いそがわ》が親類じゅうに賛成さして、晴れがましくもわたしをみんなの前に引き出しておいて、罪人にでもいうように宣告してしまったのです。わたしが一口でもいおうとすれば、五十川のいうには母の遺言ですって。死人に口なし。ほんとに木村はあなたがおっしゃったような人間ね。仙台であんな事があったでしょう。あの時知事の奥さんはじめ母のほうはなんとかしようが娘のほうは保証ができないとおっしゃったんですとさ」
 いい知らぬ侮蔑《ぶべつ》の色が葉子の顔にみなぎった。
 「ところが木村は自分の考えを押し通しもしないで、おめおめと新聞には母だけの名を出してあの広告をしたんですの。
 母だけがいい人になればだれだってわたしを……そうでしょう。そのあげくに木村はしゃあ[#「しゃあ」に傍点]しゃあとわたしを妻にしたいんですって、義一さん、男ってそれでいいものなんですか。まあね物の譬《たと》えがですわ。それとも言葉ではなんといってもむだだから、実行的にわたしの潔白を立ててやろうとでもいうんでしょうか」
 そういって激昂《げきこう》しきった葉子はかみ捨てるようにかん高《だか》くほゝ[#「ほゝ」に傍点]と笑った。
 「いったいわたしはちょっとした事で好ききらいのできる悪い質《たち》なんですからね。といってわたしはあなたのような生《き》一本でもありませんのよ。
 母の遺言だから木村と夫婦になれ。早く身を堅めて地道《じみち》に暮らさなければ母の名誉をけがす事になる。妹だって裸でお嫁入りもできまいといわれれば、わたし立派《りっぱ》に木村の妻になって御覧にいれます。その代わり木村が少しつらいだけ。
 こんな事をあなたの前でいってはさぞ気を悪くなさるでしょうが、真直《まっすぐ》なあなただと思いますから、わたしもその気で何もかも打ち明けて申してしまいますのよ。わたしの性質や境遇はよく御存じですわね。こんな性質でこんな境遇にいるわたしがこう考えるのにもし間違いがあったら、どうか遠慮なくおっしゃってください。
 あゝいやだった事。義一さん、わたしこんな事はおくびにも出さずに今の今までしっかり胸にしまって我慢していたのですけれども、きょうはどうしたんでしょう、なんだか遠い旅にでも出たようなさびしい気になってしまって……」
 弓弦《ゆづる》を切って放したように言葉を消して葉子はうつむいてしまった。日はいつのまにかとっぷり[#「とっぷり」に傍点]と暮れていた。じめじめと降り続く秋雨に湿《しと》った夜風が細々と通《かよ》って来て、湿気でたるんだ障子紙をそっ[#「そっ」に傍点]とあおって通った。古藤は葉子の顔を見るのを避けるように、そこらに散らばった服地や帽子などをながめ回して、なんと返答をしていいのか、いうべき事は腹にあるけれども言葉には現わせないふうだった。部屋《へや》は息気《いき》苦しいほどしん[#「しん」に傍点]となった。
 葉子は自分の言葉から、その時のありさまから、妙にやる瀬ないさびしい気分になっていた。強い男の手で思い存分両肩でも抱きすくめてほしいようなたよりなさを感じた。そして横腹に深々と手をやって、さし込む痛みをこらえるらしい姿をしていた。古藤はややしばらくしてから何か決心したらしくまとも[#「まとも」に傍点]に葉子を見ようとしたが、葉子の切《せつ》なさそうな哀れな様子を見ると、驚いた顔つきをしてわれ知らず葉子のほうにいざり寄った。葉子はすかさず豹《ひょう》のようになめらかに身を起こしていち早くもしっかり古藤のさし出す手を握っていた。そして、
 「義一さん」
 と震えを帯びていった声は存分に涙にぬれているように響いた。古藤は声をわななかして、
 「木村はそんな人間じゃありませんよ」
 とだけいって黙ってしまった。
 だめだったと葉子はその途端に思った。葉子の心持ちと古藤の心持ちとはちぐはぐ[#「ちぐはぐ」に傍点]になっているのだ。なんという響きの悪い心だろうと葉子はそれをさげすんだ。しかし様子にはそんな心持ちは少しも見せないで、頭から肩へかけてのなよやかな線を風の前のてっせん[#「てっせん」に傍点]の蔓《つる》のように震わせながら、二三度深々とうなずいて見せた。
 しばらくしてから葉子は顔を上げたが、涙は少しも目にたまってはいなかった。そしていとしい弟でもいたわるようにふとんから立ち上がりざま、
 「すみませんでした事、義一さん、あなた御飯はまだでしたのね」
 といいながら、腹の痛むのをこらえるような姿で古藤の前を通りぬけた。湯でほんのりと赤らんだ素足に古藤の目が鋭くちらっ[#「ちらっ」に傍点]と宿ったのを感じながら、障子を細目にあけて手をならした。
 葉子はその晩不思議に悪魔じみた誘惑を古藤に感じた。童貞で無経験で恋の戯れにはなんのおもしろみもなさそうな古藤、木村に対してといわず、友だちに対して堅苦しい義務観念の強い古藤、そういう男に対して葉子は今までなんの興味をも感じなかったばかりか、働きのない没情漢《わからずや》と見限って、口先ばかりで人間並みのあしらいをしていたのだ。しかしその晩葉子はこの少年のような心を持って肉の熟した古藤に罪を犯させて見たくってたまらなくなった。一夜のうちに木村とは顔も合わせる事のできない人間にして見たくってたまらなくなった。古藤の童貞を破る手を他の女に任せるのがねたましくてたまらなくなった。幾枚も皮をかぶった古藤の心のどん底に隠れている欲念を葉子の蠱惑力《チャーム》で掘り起こして見たくってたまらなくなった。
 気取《けど》られない範囲で葉子があらん限りの謎《なぞ》を与えたにもかかわらず、古藤が堅くなってしまってそれに応ずるけしきのないのを見ると葉子はますますいらだった。そしてその晩は腹が痛んでどうしても東京に帰れないから、いやでも横浜に宿《とま》ってくれといい出した。しかし古藤は頑《がん》としてきかなかった。そして自分で出かけて行って、品《しな》もあろう事かまっ赤《か》な毛布《もうふ》を一枚買って帰って来た。葉子はとうとう我《が》を折って最終列車で東京に帰る事にした。
 一等の客車には二人《ふたり》のほかに乗客はなかった。葉子はふとした出来心から古藤をおとしいれようとした目論見《もくろみ》に失敗して、自分の征服力に対するかすかな失望と、存分の不快とを感じていた。客車の中ではまたいろいろと話そうといって置きながら、汽車が動き出すとすぐ、古藤の膝《ひざ》のそばで毛布にくるまったまま新橋まで寝通してしまった。
 新橋に着いてから古藤が船の切符を葉子に渡して人力車を二台|傭《やと》って、その一つに乗ると、葉子はそれにかけよって懐中から取り出した紙入れを古藤の膝にほうり出して、左の鬢《びん》をやさしくかき上げながら、
 「きょうのお立て替えをどうぞその中から……あすはきっといらしってくださいましね……お待ち申しますことよ……さようなら」
 といって自分ももう一つの車に乗った。葉子の紙入れの中には正金銀行から受け取った五十円金貨八枚がはいっている。そして葉子は古藤がそれをくずして立て替えを取る気づかいのないのを承知していた。

    六

 葉子が米国に出発する九月二十五日はあすに迫った。二百二十日の荒れそこねたその年の天気は、いつまでたっても定まらないで、気違い日和《びより》ともいうべき照り降りの乱雑な空あいが続き通していた。
 葉子はその朝暗いうちに床を離れて、蔵の陰になつた自分の小部屋《こべや》にはいって、前々から片づけかけていた衣類の始末をし始めた。模様や縞《しま》の派手《はで》なのは片端からほどいて丸めて、次の妹の愛子にやるようにと片すみに重ねたが、その中には十三になる末の妹の貞世《さだよ》に着せても似合わしそうな大柄《おおがら》なものもあった。葉子は手早くそれをえり分けて見た。そして今度は船に持ち込む四季の晴れ着を、床の間の前にあるまっ黒に古ぼけたトランクの所まで持って行って、ふたをあけようとしたが、ふとそのふたのまん中に書いてあるY・Kという白文字を見て忙《せわ》しく手を控えた。これはきのう古藤が油絵の具と画筆とを持って来て書いてくれたので、かわききらないテレビンの香がまだかすかに残っていた。古藤は、葉子・早月の頭文字《かしらもじ》Y・Sと書いてくれと折り入って葉子の頼んだのを笑いながら退けて、葉子・木村の頭文字Y・Kと書く前に、S・Kとある字をナイフの先で丁寧に削ったのだった。S・Kとは木村貞一のイニシャルで、そのトランクは木村の父が欧米を漫遊した時使ったものなのだ。その古い色を見ると、木村の父の太《ふと》っ腹《ぱら》な鋭い性格と、波瀾《はらん》の多い生涯《しょうがい》の極印《ごくいん》がすわっているように見えた。木村はそれを葉子の用にと残して行ったのだった。木村の面影はふと葉子の頭の中を抜けて通った。空想で木村を描く事は、木村と顔を見合わす時ほどの厭《いと》わしい思いを葉子に起こさせなかった。黒い髪の毛をぴったり[#「ぴったり」に傍点]ときれいに分けて、怜《さ》かしい中高《なかだか》の細面《ほそおもて》に、健康らしいばら色を帯びた容貌《ようぼう》や、甘すぎるくらい人情におぼれやすい殉情的な性格は、葉子に一種のなつかしさをさえ感ぜしめた。しかし実際顔と顔とを向かい合わせると、二人《ふたり》は妙に会話さえはずまなくなるのだった。その怜《さ》かしいのがいやだった。柔和なのが気にさわった。殉情的なくせに恐ろしく勘定高いのがたまらなかった。青年らしく土俵ぎわまで踏み込んで事業を楽しむという父に似た性格さえこましゃくれて見えた。ことに東京生まれといってもいいくらい都慣れた言葉や身のこなしの間に、ふと東北の郷土の香《にお》いをかぎ出した時にはかんで捨てたいような反感に襲われた。葉子の心は今、おぼろげな回想から、実際|膝《ひざ》つき合cPた時にいやだと思った印象に移って行った。そして手に持った晴れ着をトランクに入れるのを控えてしまった。長くなり始めた夜もそのころにはようやく白《しら》み始めて、蝋燭《ろうそく》の黄色い焔《ほのお》が光の亡骸《なきがら》のように、ゆるぎもせずにともっていた。夜の間《あいだ》静まっていた西風が思い出したように障子にぶつかって、釘店《くぎだな》の狭い通りを、河岸《かし》で仕出しをした若い者が、大きな掛け声でがらがらと車をひきながら通るのが聞こえ出した。葉子はきょう一日に目まぐるしいほどあるたくさんの用事をちょっと胸の中で数えて見て、大急ぎでそこらを片づけて、錠をおろすものには錠をおろし切って、雨戸を一枚繰って、そこからさし込む光で大きな手文庫からぎっしり[#「ぎっしり」に傍点]つまった男文字の手紙を引き出すと風呂敷《ふろしき》に包み込んだ。そしてそれをかかえて、手燭《てしょく》を吹き消しながら部屋《へや》を出ようとすると、廊下に叔母《おば》が突っ立っていた。
 「もう起きたんですね……片づいたかい」
 と挨拶《あいさつ》してまだ何かいいたそうであった。両親を失ってからこの叔母夫婦と、六歳になる白痴の一人息子《ひとりむすこ》とが移って来て同居する事になったのだ。葉子の母が、どこか重々しくって男々《おお》しい風采《ふうさい》をしていたのに引きかえ、叔母は髪の毛の薄い、どこまでも貧相に見える女だった。葉子の目はその帯《おび》しろ裸《はだか》な、肉の薄い胸のあたりをちらっ[#「ちらっ」に傍点]とかすめた。
 「おやお早うございます……あらかた片づきました」
 といってそのまま二階に行こうとすると、叔母は爪《つめ》にいっぱい垢《あか》のたまった両手をもやもやと胸の所でふりながら、さえぎるように立ちはだかって、
 「あのお前さんが片づける時にと思っていたんだがね。あすのお見送りに私は着て行くものが無いんだよ。おかあさんのもので間《ま》に合うのは無いだろうかしらん。あすだけ借りればあとはちゃんと始末をして置くんだからちょっと見てお
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