お俊《しゅん》――お俊というに、何しとるぞい」
とのろま[#「のろま」に傍点]らしく呼び立てた。帯《おび》しろ裸《はだか》の叔母がそこにやって来て、またくだらぬ口論《くちいさかい》をするのだと思うと、泥《どろ》の中でいがみ合う豚かなんぞを思い出して、葉子は踵《かかと》の塵《ちり》を払わんばかりにそこそこ家を出た。細い釘店《くぎだな》の往来は場所|柄《がら》だけに門並《かどな》みきれいに掃除されて、打ち水をした上を、気のきいた風体《ふうてい》の男女が忙しそうに往《ゆ》き来《き》していた。葉子は抜け毛の丸めたのや、巻煙草《まきたばこ》の袋のちぎれたのが散らばって箒《ほうき》の目一つない自分の家の前を目をつぶって駆けぬけたいほどの思いをして、ついそばの日本銀行にはいってありったけの預金を引き出した。そしてその前の車屋で始終乗りつけのいちばん立派な人力車を仕立てさして、その足で買い物に出かけた。妹たちに買い残しておくべき衣服地や、外国人向きの土産品《みやげひん》や、新しいどっしり[#「どっしり」に傍点]したトランクなどを買い入れると、引き出した金はいくらも残ってはいなかった。そして午後の日がやや傾きかかったころ、大塚窪町《おおつかくぼまち》に住む内田《うちだ》という母の友人を訪れた。内田は熱心なキリスト教の伝道者として、憎む人からは蛇蝎《だかつ》のように憎まれるし、好きな人からは予言者のように崇拝されている天才|肌《はだ》の人だった。葉子は五つ六つのころ、母に連れられて、よくその家に出入りしたが、人を恐れずにぐん[#「ぐん」に傍点]ぐん思った事をかわいらしい口もとからいい出す葉子の様子が、始終人から距《へだ》てをおかれつけた内田を喜ばしたので、葉子が来ると内田は、何か心のこだわった時でもきげんを直して、窄《せま》った眉根《まゆね》を少しは開きながら、「また子猿《こざる》が来たな」といって、そのつやつやしたおかっぱ[#「おかっぱ」に傍点]をなで回したりなぞした。そのうち母がキリスト教婦人同盟の事業に関係して、たちまちのうちにその牛耳《ぎゅうじ》を握り、外国宣教師だとか、貴婦人だとかを引き入れて、政略がましく事業の拡張に奔走するようになると、内田はすぐきげんを損じて、早月親佐《さつきおやさ》を責めて、キリストの精神を無視した俗悪な態度だといきまいたが、親佐がいっこうに取り合う様子がないので、両家の間は見る見る疎々《うとうと》しいものになってしまった。それでも内田は葉子セけには不思議に愛着を持っていたと見えて、よく葉子のうわさをして、「子猿」だけは引き取って子供同様に育ててやってもいいなぞといったりした。内田は離縁した最初の妻が連れて行ってしまったたった[#「たった」に傍点]一人《ひとり》の娘にいつまでも未練を持っているらしかった。どこでもいいその娘に似たらしい所のある少女を見ると、内田は日ごろの自分を忘れたように甘々《あまあま》しい顔つきをした。人が怖れる割合に、葉子には内田が恐ろしく思えなかったばかりか、その峻烈《しゅんれつ》な性格の奥にとじこめられて小さくよどんだ愛情に触れると、ありきたりの人間からは得られないようななつかしみを感ずる事があった。葉子は母に黙って時々内田を訪れた。内田は葉子が来ると、どんな忙しい時でも自分の部屋《へや》に通して笑い話などをした。時には二人だけで郊外の静かな並み木道などを散歩したりした。ある時内田はもう娘らしく生長した葉子の手を堅く握って、「お前は神様以外の私のただ一人の道伴《みちづ》れだ」などといった。葉子は不思議な甘い心持ちでその言葉を聞いた。その記憶は長く忘れ得なかった。
それがあの木部との結婚問題が持ち上がると、内田は否応《いやおう》なしにある日葉子を自分の家に呼びつけた。そして恋人の変心を詰《なじ》り責める嫉妬《しっと》深い男のように、火と涙とを目からほとばしらせて、打ちもすえかねぬまでに狂い怒った。その時ばかりは葉子も心から激昂《げきこう》させられた。「だれがもうこんなわがままな人の所に来てやるものか」そう思いながら、生垣《いけがき》の多い、家並《やな》みのまばらな、轍《わだち》の跡のめいりこんだ小石川《こいしかわ》の往来を歩き歩き、憤怒の歯ぎしりを止めかねた。それは夕闇《ゆうやみ》の催した晩秋だった。しかしそれと同時になんだか大切なものを取り落としたような、自分をこの世につり上げてる糸の一つがぷつん[#「ぷつん」に傍点]と切れたような不思議なさびしさの胸に逼《せま》るのをどうする事もできなかった。
「キリストに水をやったサマリヤの女の事も思うから、この上お前には何もいうまい――他人《ひと》の失望も神の失望もちっと[#「ちっと」に傍点]は考えてみるがいい、……罪だぞ、恐ろしい罪だぞ」
そんな事があってから五年を過ぎたきょう、郵便局に行って、永田から来た為替《かわせ》を引き出して、定子を預かってくれている乳母《うば》の家に持って行こうと思った時、葉子は紙幣の束を算《かぞ》えながら、ふと内田の最後の言葉を思い出したのだった。物のない所に物を探るような心持ちで葉子は人力車を大塚のほうに走らした。
五年たっても昔のままの構えで、まばらにさし代えた屋根板と、めっきり[#「めっきり」に傍点]延びた垣添《かきぞ》いの桐《きり》の木とが目立つばかりだった。砂きしみのする格子戸《こうしど》をあけて、帯前を整えながら出て来た柔和な細君《さいくん》と顔を合わせた時は、さすがに懐旧の情が二人の胸を騒がせた。細君は思わず知らず「まあどうぞ」といったが、その瞬間にはっ[#「はっ」に傍点]とためらったような様子になって、急いで内田の書斎にはいって行った。しばらくすると嘆息しながら物をいうような内田の声が途切れ途切れに聞こえた。「上げるのは勝手だがおれが会う事はないじゃないか」といったかと思うと、はげしい音を立てて読みさしの書物をぱたん[#「ぱたん」に傍点]と閉じる音がした。葉子は自分の爪先《つまさき》を見つめながら下くちびるをかんでいた。
やがて細君がおどおどしながら立ち現われて、まずと葉子を茶の間《ま》に招じ入れた。それと入れ代わりに、書斎では内田が椅子《いす》を離れた音がして、やがて内田はずかずかと格子戸をあけて出て行ってしまった。
葉子は思わずふらふらッと立ち上がろうとするのを、何気ない顔でじっ[#「じっ」に傍点]とこらえた。せめては雷のような激しいその怒りの声に打たれたかった。あわよくば自分も思いきりいいたい事をいってのけたかった。どこに行っても取りあいもせず、鼻であしらい、鼻であしらわれ慣れた葉子には、何か真味な力で打ちくだかれるなり、打ちくだくなりして見たかった。それだったのに思い入って内田の所に来て見れば、内田は世の常の人々よりもいっそう冷ややかに酷《むご》く思われた。
「こんな事をいっては失礼ですけれどもね葉子さん、あなたの事をいろいろにいって来る人があるもんですからね、あのとおりの性質でしょう。どうもわたしにはなんともいいなだめようがないのですよ。内田があなたをお上げ申したのが不思議なほどだとわたし思いますの。このごろはことさらだれにもいわれないようなごた[#「ごた」に傍点]ごたが家の内にあるもんですから、よけいむしゃくしゃ[#「むしゃくしゃ」に傍点]していて、ほんとうにわたしどうしたらいいかと思う事がありますの」
意地も生地《きじ》も内田の強烈な性格のために存分に打ち砕かれた細君は、上品な顔立てに中世紀の尼にでも見るような思いあきらめた表情を浮かべて、捨て身の生活のどん底にひそむさびしい不足をほのめかした。自分より年下で、しかも良人《おっと》からさんざん悪評を投げられているはずの葉子に対してまで、すぐ心が砕けてしまって、張りのない言葉で同情を求めるかと思うと、葉子は自分の事のように歯がゆかった。眉《まゆ》と口とのあたりにむごたらしい軽蔑《けいべつ》の影が、まざまざと浮かび上がるのを感じながら、それをどうする事もできなかった。葉子は急に青味を増した顔で細君を見やったが、その顔は世故《せこ》に慣れきった三十女のようだった。(葉子は思うままに自分の年を五つも上にしたり下にしたりする不思議な力を持っていた。感情次第でその表情は役者の技巧のように変わった)
「歯がゆくはいらっしゃらなくって」
と切り返すように内田の細君の言葉をひったくって、
「わたしだったらどうでしょう。すぐおじさんとけんかして出てしまいますわ。それはわたし、おじさんを偉い方《かた》だとは思っていますが、わたしこんなに生まれついたんですからどうしようもありませんわ。一から十までおっしゃる事をはい[#「はい」に傍点]はいと聞いていられませんわ。おじさんもあんまりでいらっしゃいますのね。あなたみたいな方に、そう笠《かさ》にかからずとも、わたしでもお相手になさればいいのに……でもあなたがいらっしゃればこそおじさんもああやってお仕事がおできになるんですのね。わたしだけは除《の》け物ですけれども、世の中はなかなかよくいっていますわ。……あ、それでもわたしはもう見放されてしまったんですものね、いう事はありゃしません。ほんとうにあなたがいらっしゃるのでおじさんはお仕合わせですわ。あなたは辛抱なさる方《かた》。おじさんはわがままでお通しになる方《かた》。もっともおじさんにはそれが神様の思《おぼ》し召《め》しなんでしょうけれどもね。……わたしも神様の思《おぼ》し召《め》しかなんかでわがままで通す女なんですからおじさんとはどうしても茶碗《ちゃわん》と茶碗ですわ。それでも男はようござんすのね、わがままが通るんですもの。女のわがままは通すよりしかたがないんですからほんとうに情けなくなりますのね。何も前世の約束なんでしょうよ……」
内田の細君は自分よりはるか年下の葉子の言葉をしみじみと聞いているらしかった。葉子は葉子でしみじみと細君の身なりを見ないではいられなかった。一昨日《おととい》あたり結ったままの束髪《そくはつ》だった。癖のない濃い髪には薪《たきぎ》の灰らしい灰がたかっていた。糊気《のりけ》のぬけきった単衣《ひとえ》も物さびしかった。その柄《がら》の細かい所には里の母の着古しというような香《にお》いがした。由緒《ゆいしょ》ある京都の士族に生まれたその人の皮膚は美しかった。それがなおさらその人をあわれにして見せた。
「他人《ひと》の事なぞ考えていられやしない」しばらくすると葉子は捨てばちにこんな事を思った。そして急にはずんだ調子になって、
「わたしあすアメリカに発《た》ちますの、ひとりで」
と突拍子《とっぴょうし》もなくいった。あまりの不意に細君は目を見張って顔をあげた。
「まあほんとうに」
「はあほんとうに……しかも木村の所に行くようになりましたの。木村、御存じでしょう」
細君がうなずいてなお仔細《しさい》を聞こうとすると、葉子は事もなげにさえぎって、
「だからきょうはお暇乞《いとまご》いのつもりでしたの。それでもそんな事はどうでもようございますわ。おじさんがお帰りになったらよろしくおっしゃってくださいまし、葉子はどんな人間になり下がるかもしれませんって……あなたどうぞおからだをお大事に。太郎《たろう》さんはまだ学校でございますか。大きくおなりでしょうね。なんぞ持って上がればよかったのに、用がこんなものですから」
といいながら両手で大きな輪を作って見せて、若々しくほほえみながら立ち上がった。
玄関に送って出た細君の目には涙がたまっていた。それを見ると、人はよく無意味な涙を流すものだと葉子は思った。けれどもあの涙も内田が無理無体にしぼり出させるようなものだと思い直すと、心臓の鼓動が止まるほど葉子の心はかっ[#「かっ」に傍点]となった。そして口びるを震わしながら、
「もう一言《ひとこと》おじさんにおっしゃってくださいまし、七度を七十倍はなさらずとも、せめて三度ぐらいは人の尤《とが》も許して上げてくださいまし
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