てはいなかった。葉子が来たならばと金の上にも心の上にもあて[#「あて」に傍点]にしていたのがみごとにはずれてしまって、葉子が帰るにつけては、なけなしの所からまたまたなんとかしなければならないはめ[#「はめ」に傍点]に立った木村は、二三日のうちに、ぬか喜びも一時の間で、孤独と冬とに囲まれなければならなかったのだ。
葉子は木村が結局事務長にすがり寄って来るほかに道のない事を察していた。
木村ははたして事務長を葉子の部屋《へや》に呼び寄せてもらった。事務長はすぐやって来たが、服なども仕事着のままで何かよほどせわしそうに見えた。木村はまあといって倉地に椅子《いす》を与えて、きょうはいつものすげない態度に似ず、折り入っていろいろと葉子の身の上を頼んだ。事務長は始めの忙《せわ》しそうだった様子に引きかえて、どっしり[#「どっしり」に傍点]と腰を据えて正面から例の大きく木村を見やりながら、親身《しんみ》に耳を傾けた。木村の様子のほうがかえってそわそわしくながめられた。
木村は大きな紙入れを取り出して、五十ドルの切手を葉子に手渡しした。
「何もかも御承知だから倉地さんの前でいうほうが世話なしだと思いますが、なんといってもこれだけしかできないんです。こ、これです」
といってさびしく笑いながら、両手を出して広げて見せてから、チョッキをたたいた。胸にかかっていた重そうな金鎖も、四つまではめられていた指輪の三つまでもなくなっていて、たった、一つ婚約の指輪だけが貧乏臭く左の指にはまっているばかりだった。葉子はさすがに「まあ」といった。
「葉子さん、わたしはどうにでもします。男一匹なりゃどこにころがり込んだからって、――そんな経験もおもしろいくらいのものですが、これんばかりじゃあなたが足りなかろうと思うと、面目《めんぼく》もないんです。倉地さん、あなたにはこれまででさえいいかげん世話をしていただいてなんともすみませんですが、わたしども二人《ふたり》はお打ち明け申したところ、こういうていたらく[#「ていたらく」に傍点]なんです。横浜へさえおとどけくださればその先はまたどうにでもしますから、もし旅費にでも不足しますようでしたら、御迷惑ついでになんとかしてやっていただく事はできないでしょうか」
事務長は腕組みをしたまままじまじ[#「まじまじ」に傍点]と木村の顔を見やりながら聞いていたが、
「あなたはちっとも持っとらんのですか」
と聞いた。木村はわざと快活にしいて声高《こわだか》く笑いながら、
「きれいなもんです」
とまたチョッキをたたくと、
「そりゃいかん。何、船賃なんぞいりますものか。東京で本店にお払いになればいいんじゃし、横浜の支店長も万事心得とられるんだで、御心配いりませんわ。そりゃあなたお持ちになるがいい。外国にいて文《もん》なしでは心細いもんですよ」
と例の塩辛声《しおからごえ》でややふきげんらしくいった。その言葉には不思議に重々しい力がこもっていて、木村はしばらくかれこれと押し問答をしていたが、結局事務長の親切を無にする事の気の毒さに、直《すぐ》な心からなおいろいろと旅中の世話を頼みながら、また大きな紙入れを取り出して切手をたたみ込んでしまった。
「よしよしそれで何もいう事はなし。早月《さつき》さんはわしが引き受けた」
と不敵な微笑を浮かべながら、事務長は始めて葉子のほうを見返った。
葉子は二人《ふたり》を目の前に置いて、いつものように見比べながら二人の会話を聞いていた。あたりまえなら、葉子はたいていの場合、弱いものの味方をして見るのが常だった。どんな時でも、強いものがその強味を振りかざして弱い者を圧迫するのを見ると、葉子はかっ[#「かっ」に傍点]となって、理が非でも弱いものを勝たしてやりたかった。今の場合木村は単に弱者であるばかりでなく、その境遇もみじめなほどたよりない苦しいものである事は存分に知り抜いていながら、木村に対しての同情は不思議にもわいて来なかった。齢《とし》の若さ、姿のしなやかさ、境遇のゆたかさ、才能のはなやかさというようなものをたよりにする男たちの蠱惑《こわく》の力は、事務長の前では吹けば飛ぶ塵《ちり》のごとく対照された。この男の前には、弱いものの哀れよりも醜さがさらけ出された。
なんという不幸な青年だろう。若い時に父親に死に別れてから、万事思いのままだった生活からいきなり[#「いきなり」に傍点]不自由な浮世のどん底にほうり出されながら、めげもせずにせっせ[#「せっせ」に傍点]と働いて、後ろ指をさされないだけの世渡りをして、だれからも働きのある行く末たのもしい人と思われながら、それでも心の中のさびしさを打ち消すために思い入った恋人は仇《あだ》し男にそむいてしまっている。それをまたそうとも知らずに、その男の情けにすがって、消えるに決まった約束をのがすまいとしている。……葉子はしいて自分を説服するようにこう考えてみたが、少しも身にしみた感じは起こって来ないで、ややもすると笑い出したいような気にすらなっていた。
「よしよしそれで何もいう事はなし。早月さんはわしが引き受けた」
という声と不敵な微笑とがどやす[#「どやす」に傍点]ように葉子の心の戸を打った時、葉子も思わず微笑を浮かべてそれに応じようとした。が、その瞬間、目ざとく木村の見ているのに気がついて、顔には笑いの影はみじんも現わさなかった。
「わしへの用はそれだけでしょう。じゃ忙《せわ》しいで行きますよ」
とぶっきらぼう[#「ぶっきらぼう」に傍点]にいって事務長が部屋を出て行ってしまうと、残った二人は妙にてれて、しばらくは互いに顔を見合わすのもはばかって黙ったままでいた。
事務長が行ってしまうと葉子は急に力が落ちたように思った。今までの事がまるで芝居《しばい》でも見て楽しんでいたようだった。木村のやる瀬ない心の中が急に葉子に逼《せま》って来た。葉子の目には木村をあわれむとも自分をあわれむとも知れない涙がいつのまにか宿っていた。
木村は痛ましげに黙ったままでしばらく葉子を見やっていたが、
「葉子さん今になってそう泣いてもらっちゃわたしがたまりませんよ。きげんを直してください。またいい日も回って来るでしょうから。神を信ずるもの――そういう信仰が今あなたにあるかどうか知らないが――おかあさんがああいう堅い信者でありなさったし、あなたも仙台時分には確かに信仰を持っていられたと思いますが、こんな場合にはなおさら同じ神様から来る信仰と希望とを持って進んで行きたいものだと思いますよ。何事も神様は知っていられる……そこにわたしはたゆまない希望をつないで行きます」
決心した所があるらしく力強い言葉でこういった。何の希望! 葉子は木村の事については、木村のいわゆる神様以上に木村の未来を知りぬいているのだ。木村の希望というのはやがて失望にそうして絶望に終わるだけのものだ。何の信仰! 何の希望! 木村は葉子が据《す》えた道を――行きどまりの袋小路を――天使の昇《のぼ》り降りする雲の梯《かけはし》のように思っている。あゝ何の信仰!
葉子はふと同じ目を自分に向けて見た。木村を勝手気ままにこづき回す威力を備えた自分はまただれに何者に勝手にされるのだろう。どこかで大きな手が情けもなく容赦もなく冷然と自分の運命をあやつっている。木村の希望がはかなく断ち切れる前、自分の希望がいち早く断たれてしまわないとどうして保障する事ができよう。木村は善人だ。自分は悪人だ。葉子はいつのまにか純な感情に捕えられていた。
「木村さん。あなたはきっと、しまいにはきっと祝福をお受けになります……どんな事があっても失望なさっちゃいやですよ。あなたのような善《よ》い方《かた》が不幸にばかりおあいになるわけがありませんわ。……わたしは生まれるときから呪《のろ》われた女なんですもの。神、ほんとうは神様を信ずるより……信ずるより憎むほうが似合っているんです……ま、聞いて……でも、わたし卑怯《ひきょう》はいやだから信じます……神様はわたしみたいなものをどうなさるか、しっかり[#「しっかり」に傍点]目を明いて最後まで見ています」
といっているうちにだれにともなくくやしさが胸いっぱいにこみ上げて来るのだった。
「あなたはそんな信仰はないとおっしゃるでしょうけれども……でもわたしにはこれが信仰です。立派な信仰ですもの」
といってきっぱり[#「きっぱり」に傍点]思いきったように、火のように熱く目にたまったままで流れずにいる涙を、ハンケチでぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]と押しぬぐいながら、黯然《あんぜん》と頭をたれた木村に、
「もうやめましょうこんなお話。こんな事をいってると、いえばいうほど先が暗くなるばかりです。ほんとに思いきって不仕合わせな人はこんな事をつべこべ[#「つべこべ」に傍点]と口になんぞ出しはしませんわ。ね、いや、あなたは自分のほうからめいってしまって、わたしのいった事ぐらいでなんですねえ、男のくせに」
木村は返事もせずにまっさおになってうつむいていた。
そこに「御免なさい」というかと思うと、いきなり[#「いきなり」に傍点]戸をあけてはいって来たものがあった。木村も葉子も不意を打たれて気先《きさき》をくじかれながら、見ると、いつぞや錨綱《びょうづな》で足をけがした時、葉子の世話になった老水夫だった。彼はとうとう跛脚《びっこ》になっていた。そして水夫のような仕事にはとても役に立たないから、幸いオークランドに小農地を持ってとにかく暮らしを立てている甥《おい》を尋ねて厄介《やっかい》になる事になったので、礼かたがた暇乞《いとまご》いに来たというのだった。葉子は紅《あか》くなった目を少し恥ずかしげにまたたかせながら、いろいろと慰めた。
「何ねこう老いぼれちゃ、こんな稼業《かぎょう》をやってるがてんで[#「てんで」に傍点]うそなれど、事務長さんとボンスン(水夫長)とがかわいそうだといって使ってくれるで、いい気になったが罰《ばち》あたったんだね」
といって臆病《おくびょう》に笑った。葉子がこの老人をあわれみいたわるさまはわき目もいじらしかった。日本には伝言を頼むような近親《みより》さえない身だというような事を聞くたびに、葉子は泣き出しそうな顔をして合点合点していたが、しまいには木村の止めるのも聞かず寝床から起き上がって、木村の持って来た果物《くだもの》をありったけ籃《かご》につめて、
「陸《おか》に上がればいくらもあるんだろうけれども、これを持っておいで。そしてその中に果物でなくはいっているものがあったら、それもお前さんに上げたんだからね、人に取られたりしちゃいけませんよ」
といってそれを渡してやった。
老人が来てから葉子は夜が明けたように始めて晴れやかなふだんの気分になった。そして例のいたずららしいにこにこした愛矯《あいきょう》を顔いちめんにたたえて、
「なんという気さく[#「さく」に傍点]なんでしょう。わたし、 あんなおじいさんのお内儀《かみ》さんになってみたい……だからね、いいものをやっちまった」
きょとり[#「きょとり」に傍点]としてまじ[#「まじ」に傍点]まじ木村のむっつり[#「むっつり」に傍点]とした顔を見やる様子は大きな子供とより思えなかった。
「あなたからいただいたエンゲージ・リングね、あれをやりましてよ。だってなんにもないんですもの」
なんともいえない媚《こ》びをつつむおとがい[#「おとがい」に傍点]が二重になって、きれいな歯並みが笑いのさざ波のように口びるの汀《みぎわ》に寄せたり返したりした。
木村は、葉子という女はどうしてこうむら[#「むら」に傍点]気で上《うわ》すべりがしてしまうのだろう、情けないというような表情を顔いちめんにみなぎらして、何かいうべき言葉を胸の中で整えているようだったが、急に思い捨てたというふうで、黙ったままでほっ[#「ほっ」に傍点]と深いため息をついた。
それを見ると今まで珍しく押えつけられていた反抗心が、またも
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