東京を発《た》った時の模様をまた仔細《しさい》に話しつづけた。
 こうしたふうで葛藤《かっとう》は葉子の手一つで勝手に紛らされたりほごされたりした。
 葉子は一人《ひとり》の男をしっかり[#「しっかり」に傍点]と自分の把持《はじ》の中に置いて、それが猫《ねこ》が鼠《ねずみ》でも弄《な》ぶるように、勝手に弄《な》ぶって楽しむのをやめる事ができなかったと同時に、時々は木村の顔を一目見たばかりで、虫唾《むしず》が走るほど厭悪《けんお》の情に駆り立てられて、われながらどうしていいかわからない事もあった。そんな時にはただいちずに腹痛を口実にして、一人になって、腹立ち紛れにあり合わせたものを取って床の上にほうったりした。もう何もかもいってしまおう。弄《もてあそ》ぶにも足らない木村を近づけておくには当たらない事だ。何もかも明らかにして気分だけでもさっぱり[#「さっぱり」に傍点]したいとそう思う事もあった。しかし同時に葉子は戦術家の冷静さをもって、実際問題を勘定に入れる事も忘れはしなかった。事務長をしっかり[#「しっかり」に傍点]自分の手の中に握るまでは、早計に木村を逃がしてはならない。「宿屋きめずに草鞋《わらじ》を脱ぐ」……母がこんな事を葉子の小さい時に教えてくれたのを思い出したりして、葉子は一人で苦笑《にがわら》いもした。
 そうだ、まだ木村を逃がしてはならぬ。葉子は心の中に書き記《しる》してでも置くように、上目を使いながらこんな事を思った。
 またある時葉子の手もとに米国の切手のはられた手紙が届いた事があった。葉子は船へなぞあてて手紙をよこす人はないはずだがと思って開いて見ようとしたが、また例のいたずらな心が動いて、わざと木村に開封させた。その内容がどんなものであるかの想像もつかないので、それを木村に読ませるのは、武器を相手に渡して置いて、自分は素手《すで》で格闘するようなものだった。葉子はそこに興味を持った。そしてどんな不意な難題が持ち上がるだろうかと、心をときめかせながら結果を待った。その手紙は葉子に簡単な挨拶《あいさつ》を残したまま上陸した岡から来たものだった。いかにも人柄に不似合いな下手《へた》な字体で、葉子がひょっ[#「ひょっ」に傍点]とすると上陸を見合わせてそのまま帰るという事を聞いたが、もしそうなったら自分も断然帰朝する。気違いじみたしわざとお笑いになるかもしれないが、自分にはどう考えてみてもそれよりほかに道はない。葉子に離れて路傍の人の間に伍《ご》したらそれこそ狂気になるばかりだろう。今まで打ち明けなかったが、自分は日本でも屈指な豪商の身内に一人子《ひとりご》と生まれながら、からだが弱いのと母が継母であるために、父の慈悲から洋行する事になったが、自分には故国が慕われるばかりでなく、葉子のように親しみを覚えさしてくれた人はないので、葉子なしには一刻も外国の土に足を止めている事はできぬ。兄弟《きょうだい》のない自分には葉子が前世《ぜんせ》からの姉とより思われぬ。自分をあわれんで弟と思ってくれ。せめては葉子の声の聞こえる所顔の見える所にいるのを許してくれ。自分はそれだけのあわれみを得たいばかりに、家族や後見人のそしりもなんとも思わずに帰国するのだ。事務長にもそれを許してくれるように頼んでもらいたい。という事が、少し甘い、しかし真率《しんそつ》な熱情をこめた文体で長々と書いてあったのだった。
 葉子は木村が問うままに包まず岡との関係を話して聞かせた。木村は考え深く、それを聞いていたが、そんな人ならぜひあって話をしてみたいといい出した。自分より一段若いと見ると、かくばかり寛大になる木村を見て葉子は不快に思った。よし、それでは岡を通して倉地との関係を木村に知らせてやろう。そして木村が嫉妬《しっと》と憤怒《ふんぬ》とでまっ黒になって帰って来た時、それを思うままあやつってまた元の鞘に納めて見せよう。そう思って葉子は木村のいうままに任せて置いた。
 次の朝、木村は深い感激の色をたたえて船に来た。そして岡と会見した時の様子をくわしく物語った。岡はオリエンタル・ホテルの立派な一室にたった一人でいたが、そのホテルには田川夫妻も同宿なので、日本人の出入りがうるさいといって困っていた。木村の訪問したというのを聞いて、ひどくなつかしそうな様子で出迎えて、兄でも敬《うやま》うようにもてなして、やや落ち付いてから隠し立てなく真率に葉子に対する自分の憧憬《しょうけい》のほどを打ち明けたので、木村は自分のいおうとする告白を、他人の口からまざまざと聞くような切《せつ》な情にほだされて、もらい泣きまでしてしまった。二人《ふたり》は互いに相あわれむというようななつかしみを感じた。これを縁に木村はどこまでも岡を弟とも思って親しむつもりだ。が、日本に帰る決心だけは思いとどまるように勧めて置いたといった。岡はさすがに育ちだけに事務長と葉子との間のいきさつ[#「いきさつ」に傍点]を想像に任せて、はした[#「はした」に傍点]なく木村に語る事はしなかったらしい。木村はその事についてはなんともいわなかった。葉子の期待は全くはずれてしまった。役者|下手《べた》なために、せっかくの芝居《しばい》が芝居にならずにしまった事を物足らなく思った。しかしこの事があってから岡の事が時々葉子の頭に浮かぶようになった。女にしてもみまほしいかの華車《きゃしゃ》な青春の姿がどうかするといとしい思い出となって、葉子の心のすみに潜むようになった。
 船がシヤトルに着いてから五六日たって、木村は田川夫妻にも面会する機会を造ったらしかった。そのころから木村は突然わき目にもそれと気が付くほど考え深くなって、ともすると葉子の言葉すら聞き落としてあわてたりする事があった。そしてある時とうとう一人《ひとり》胸の中には納めていられなくなったと見えて、
 「わたしにゃあなたがなぜあんな人と近しくするかわかりませんがね」
 と事務長の事をうわさのようにいった。葉子は少し腹部に痛みを覚えるのをことさら誇張してわき腹を左手で押えて、眉《まゆ》をひそめながら聞いていたが、もっともらしく幾度もうなずいて、
 「それはほんとうにおっしゃるとおりですから何も好んで近づきたいとは思わないんですけれども、これまでずいぶん世話になっていますしね、それにああ見えていて思いのほか親切気のある人ですから、ボーイでも水夫でもこわがりながらなついていますわ。おまけにわたしお金まで借りていますもの」
 とさも当惑したらしくいうと、
 「あなたお金は無しですか」
 木村は葉子の当惑さを自分の顔にも現わしていた。
 「それはお話ししたじゃありませんか」
 「困ったなあ」
 木村はよほど困りきったらしく握った手を鼻の下にあてがって、下を向いたまましばらく思案に暮れていたが、
 「いくらほど借りになっているんです」
 「さあ診察料や滋養品で百円近くにもなっていますかしらん」
 「あなたは金は全く無しですね」
 木村はさらに繰り返していってため息をついた。
 葉子は物慣れぬ弟を教えいたわるように、
 「それに万一わたしの病気がよくならないで、ひとまず日本へでも帰るようになれば、なおなお帰りの船の中では世話にならなければならないでしょう。……でも大丈夫そんな事はないとは思いますけれども、さきざきまでの考えをつけておくのが旅にあればいちばん大事ですもの」
 木村はなおも握った手を鼻の下に置いたなり、なんにもいわず、身動きもせず考え込んでいた。
 葉子は術《すべ》なさそうに木村のその顔をおもしろく思いながらまじ[#「まじ」に傍点]まじと見やっていた。
 木村はふと顔を上げてしげしげと葉子を見た。何かそこに字でも書いてありはしないかとそれを読むように。そして黙ったまま深々と嘆息した。
 「葉子さん。わたしは何から何まであなたを信じているのがいい事なのでしょうか。あなたの身のためばかり思ってもいうほうがいいかとも思うんですが……」
 「ではおっしゃってくださいましななんでも」
 葉子の口は少し親しみをこめて冗談らしく答えていたが、その目からは木村を黙らせるだけの光が射られていた。軽はずみな事をいやしくもいってみるがいい、頭を下げさせないでは置かないから。そうその目はたしかにいっていた。
 木村は思わず自分の目をたじろがして黙ってしまった。葉子は片意地にも目で続けさまに木村の顔をむちうった。木村はその笞《しもと》の一つ一つを感ずるようにどぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]した。
 「さ、おっしゃってくださいまし……さ」
 葉子はその言葉にはどこまでも好意と信頼とをこめて見せた。木村はやはり躊躇《ちゅうちょ》していた。葉子はいきなり手を延ばして木村を寝台に引きよせた。そして半分起き上がってその耳に近く口を寄せながら、
 「あなたみたいに水臭い物のおっしゃりかたをなさる方《かた》もないもんね。なんとでも思っていらっしゃる事をおっしゃってくださればいいじゃありませんか。……あ、痛い……いゝえさして痛くもないの。何を思っていらっしゃるんだかおっしゃってくださいまし、ね、さ。なんでしょうねえ。伺いたい事ね。そんな他人行儀は……あ、あ、痛い、おゝ痛い……ちょっとここのところを押えてくださいまし。……さし込んで来たようで……あ、あ」
 といいながら、目をつぶって、床の上に寝倒れると、木村の手を持ち添えて自分の脾腹《ひばら》を押えさして、つらそうに歯をくいしばってシーツに顔を埋《うず》めた。肩でつく息気《いき》がかすかに雪白《せっぱく》のシーツを震わした。
 木村はあたふたしながら、今までの言葉などはそっちのけにして介抱にかかった。

    二一

 絵島丸はシヤトルに着いてから十二日目に纜《ともづな》を解いて帰航するはずになっていた。その出発があと三日になった十月十五日に、木村は、船医の興録から、葉子はどうしてもひとまず帰国させるほうが安全だという最後の宣告を下されてしまった。木村はその時にはもう大体覚悟を決めていた。帰ろうと思っている葉子の下心《したごころ》をおぼろげながら見て取って、それを翻す事はできないとあきらめていた。運命に従順な羊のように、しかし執念《しゅうね》く将来の希望を命にして、現在の不満に服従しようとしていた。
 緯度の高いシヤトルに冬の襲いかかって来るさまはすさまじいものだった。海岸線に沿うてはるか遠くまで連続して見渡されるロッキーの山々はもうたっぷり[#「たっぷり」に傍点]と雪がかかって、穏やかな夕空に現われ慣れた雲の峰も、古綿のように形のくずれた色の寒い霰雲《あられぐも》に変わって、人をおびやかす白いものが、今にも地を払って降りおろして来るかと思われた。海ぞいに生《は》えそろったアメリカ松の翠《みどり》ばかりが毒々しいほど黒ずんで、目に立つばかりで、濶葉樹《かつようじゅ》の類は、いつのまにか、葉を払い落とした枝先を針のように鋭く空に向けていた。シヤトルの町並みがあると思われるあたりからは――船のつながれている所から市街は見えなかった――急に煤煙《ばいえん》が立ち増さって、せわしく冬じたくを整えながら、やがて北半球を包んで攻め寄せて来るまっ白な寒気に対しておぼつかない抵抗を用意するように見えた。ポッケットに両手をさし入れて、頭を縮め気味に、波止場の石畳を歩き回る人々の姿にも、不安と焦躁とのうかがわれるせわしい自然の移り変わりの中に、絵島丸はあわただしい発航の準備をし始めた。絞盤《こうばん》の歯車のきしむ音が船首と船尾とからやかましく冴《さ》え返って聞こえ始めた。
 木村はその日も朝から葉子を訪れて来た。ことに青白く見える顔つきは、何かわくわくと胸の中に煮え返る想《おも》いをまざまざと裏切って、見る人のあわれを誘うほどだった。背水の陣と自分でもいっているように、亡父の財産をありったけ金に代えて、手っ払《ぱら》いに日本の雑貨を買い入れて、こちらから通知書一つ出せば、いつでも日本から送ってよこすばかりにしてあるものの、手もとにはいささかの銭《ぜに》も残っ
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