や旋風のように葉子の心に起こった。「ねち[#「ねち」に傍点]ねちさったらない」と胸の中をいらいらさせながら、ついでの事に少しいじめてやろうというたくらみが頭をもたげた。しかし顔はどこまでも前のままの無邪気さで、
「木村さんお土産《みやげ》を買ってちょうだいな。愛も貞もですけれども、親類たちや古藤《ことう》さんなんぞにも何かしないじゃ顔が向けられませんもの。今ごろは田川の奥さんの手紙が五十川《いそがわ》のおばさんの所に着いて、東京ではきっと大騒ぎをしているに違いありませんわ。発《た》つ時には世話を焼かせ、留守は留守で心配させ、ぽかん[#「ぽかん」に傍点]としてお土産一つ持たずに帰って来るなんて、木村もいったい木村じゃないかといわれるのが、わたし、死ぬよりつらいから、少しは驚くほどのものを買ってちょうだい。先ほどのお金で相当のものが買《と》れるでしょう」
木村は駄々児《だだっこ》をなだめるようにわざとおとなしく、
「それはよろしい、買えとなら買いもしますが、わたしはあなたがあれをまとまったまま持って帰ったらと思っているんです。たいていの人は横浜に着いてから土産《みやげ》を買うんですよ。そのほうが実際格好ですからね。持ち合わせもなしに東京に着きなさる事を思えば、土産なんかどうでもいいと思うんですがね」
「東京に着きさえすればお金はどうにでもしますけれども、お土産《みやげ》は……あなた横浜の仕入れものはすぐ知れますわ……御覧なさいあれを」
といって棚《たな》の上にある帽子入れのボール箱に目をやった。
「古藤さんに連れて行っていただいてあれを買った時は、ずいぶん吟味したつもりでしたけれども、船に来てから見ているうちにすぐあきてしまいましたの。それに田川の奥さんの洋服姿を見たら、我慢にも日本で買ったものをかぶったり着たりする気にはなれませんわ」
そういってるうちに木村は棚から箱をおろして中をのぞいていたが、
「なるほど型はちっと古いようですね。だが品《しな》はこれならこっち[#「こっち」に傍点]でも上の部ですぜ」
「だからいやですわ。流行おくれとなると値段の張ったものほどみっともないんですもの」
しばらくしてから、
「でもあのお金はあなた御入用ですわね」
木村はあわてて弁解的に、
「いゝえ、あれはどの道あなたに上げるつもりでいたんですから……」
というのを葉子は耳にも入れないふうで、
「ほんとにばかねわたしは……思いやりもなんにもない事を申し上げてしまって、どうしましょうねえ。……もうわたしどんな事があってもそのお金だけはいただきません事よ。こういったらだれがなんといったってだめよ」
ときっぱり[#「きっぱり」に傍点]いい切ってしまった。木村はもとより一度いい出したらあとへは引かない葉子の日ごろの性分を知り抜いていた。で、言わず語らずのうちに、その金は品物にして持って帰らすよりほかに道のない事を観念したらしかった。
* * *
その晩、事務長が仕事を終えてから葉子の部屋《へや》に来ると、葉子は何か気に障《さ》えたふうをしてろくろくもてなしもしなかった。
「とうとう形《かた》がついた。十九日の朝の十時だよ出航は」
という事務長の快活な言葉に返事もしなかった。男は怪訝《けげん》な顔つきで見やっている。
「悪党」
としばらくしてから、葉子は一言《ひとこと》これだけいって事務長をにらめた。
「なんだ?」
と尻上《しりあ》がりにいって事務長は笑っていた。
「あなたみたいな残酷な人間はわたし始めて見た。木村を御覧なさいかわいそうに。あんなに手ひどくしなくったって……恐ろしい人ってあなたの事ね」
「何?」
とまた事務長は尻上がりに大きな声でいって寝床に近づいて来た。
「知りません」
と葉子はなお怒《おこ》って見せようとしたが、いかにも刻みの荒い、単純な、他意のない男の顔を見ると、からだのどこかが揺《ゆす》られる気がして来て、わざと引き締めて見せた口びるのへんから思わずも笑いの影が潜み出た。
それを見ると事務長は苦《にが》い顔と笑った顔とを一緒にして、
「なんだいくだらん」
といって、電燈の近所に椅子《いす》をよせて、大きな長い足を投げ出して、夕刊新聞を大きく開いて目を通し始めた。
木村とは引きかえて事務長がこの部屋に来ると、部屋が小さく見えるほどだった。上向けた靴《くつ》の大きさには葉子は吹き出したいくらいだった。葉子は目でなでたりさすったりするようにして、この大きな子供みたような暴君の頭から足の先までを見やっていた。ごわっ[#「ごわっ」に傍点]ごわっと時々新聞を折り返す音だけが聞こえて、積み荷があらかた片付いた船室の夜は静かにふけて行った。
葉子はそうしたままでふと木村を思いやった。
木村は銀行に寄って切手を現金に換えて、店の締まらないうちにいくらか買い物をして、それを小わきにかかえながら、夕食もしたためずに、ジャクソン街にあるという日本人の旅店に帰り着くころには、町々に灯《ひ》がともって、寒い靄《もや》と煙との間を労働者たちが疲れた五体を引きずりながら歩いて行くのにたくさん出あっているだろう。小さなストーブに煙の多い石炭がぶしぶし燃えて、けばけばしい電灯の光だけが、むちうつようにがらん[#「がらん」に傍点]とした部屋《へや》の薄ぎたなさを煌々《こうこう》と照らしているだろう。その光の下で、ぐらぐらする椅子《いす》に腰かけて、ストーブの火を見つめながら木村が考えている。しばらく考えてからさびしそうに見るともなく部屋の中を見回して、またストーブの火にながめ入るだろう。そのうちにあの涙の出やすい目からは涙がほろほろととめどもなく流れ出るに違いない。
事務長が音をたてて新聞を折り返した。
木村は膝頭《ひざがしら》に手を置いて、その手の中に顔を埋《うず》めて泣いている。祈っている。葉子は倉地から目を放して、上目を使いながら木村の祈りの声に耳を傾けようとした。途切れ途切れな切《せつ》ない祈りの声が涙にしめって確かに……確かに聞こえて来る。葉子は眉《まゆ》を寄せて注意力を集注しながら、木村がほんとうにどう葉子を思っているかをはっきり見窮めようとしたが、どうしても思い浮かべてみる事ができなかった。
事務長がまた新聞を折り返す音を立てた。
葉子ははっ[#「はっ」に傍点]として淀《よど》みにささえられた木の葉がまた流れ始めたように、すらすらと木村の所作を想像した。それがだんだん岡の上に移って行った。哀れな岡! 岡もまだ寝ないでいるだろう。木村なのか岡なのかいつまでもいつまでも寝ないで火の消えかかったストーブの前にうずくまっているのは……ふけるままにしみ込む寒さはそっと床を伝わって足の先からはい上がって来る。男はそれにも気が付かぬふうで椅子《いす》の上にうなだれている。すべての人は眠っている時に、木村の葉子も事務長に抱かれて安々と眠っている時に……。
ここまで想像して来ると小説に読みふけっていた人が、ほっとため息をしてばたん[#「ばたん」に傍点]と書物をふせるように、葉子も何とはなく深いため息をしてはっきり[#「はっきり」に傍点]と事務長を見た。葉子の心は小説を読んだ時のとおり無関心の Pathos をかすかに感じているばかりだった。
「おやすみにならないの?」
と葉子は鈴のように涼しい小さい声で倉地にいってみた。大きな声をするのもはばかられるほどあたりはしん[#「しん」に傍点]と静まっていた。
「う」
と返事はしたが事務長は煙草《たばこ》をくゆらしたまま新聞を見続けていた。葉子も黙ってしまった。
ややしばらくしてから事務長もほっ[#「ほっ」に傍点]とため息をして、
「どれ寝るかな」
といいながら椅子《いす》から立って寝床にはいった。葉子は事務長の広い胸に巣食うように丸まって少し震えていた。
やがて子供のようにすやすやと安らかないびきが葉子の口びるからもれて来た。
倉地は暗闇《くらやみ》の中で長い間まんじりともせず大きな目を開いていたが、やがて、
「おい悪党」
と小さな声で呼びかけてみた。
しかし葉子の規則正しく楽しげな寝息は露ほども乱れなかった。
真夜中に、恐ろしい夢を葉子は見た。よくは覚えていないが、葉子は殺してはいけないいけないと思いながら人殺しをしたのだった。一方の目は尋常に眉《まゆ》の下にあるが、一方のは不思議にも眉の上にある、その男の額から黒血がどくどくと流れた。男は死んでも物すごくにやりにやりと笑い続けていた。その笑い声が木村木村と聞こえた。始めのうちは声が小さかったがだんだん大きくなって数もふえて来た。その「木村木村」という数限りもない声がうざうざと葉子を取り巻き始めた。葉子は一心に手を振ってそこからのがれようとしたが手も足も動かなかった。
木村……
木村
木村 木村……
木村 木村
木村 木村 木村……
木村 木村
木村 木村……
木村
木村……
ぞっ[#「ぞっ」に傍点]として寒気《さむけ》を覚えながら、葉子は闇《やみ》の中に目をさました。恐ろしい凶夢のなごりは、ど、ど、ど……と激しく高くうつ心臓に残っていた。葉子は恐怖におびえながら一心に暗い中をおどおどと手探りに探ると事務長の胸に触れた。
「あなた」
と小さい震え声で呼んでみたが男は深い眠りの中にあった。なんともいえない気味わるさがこみ上げて来て、葉子は思いきり男の胸をゆすぶってみた。
しかし男は材木のように感じなく熟睡していた。
(前編 了)
底本:「或る女 前編」岩波文庫、岩波書店
1950(昭和25)年5月5日 第1刷発行
1968(昭和43)年6月16日 第27刷改版発行
1998(平成10)年11月16日 第42刷発行
入力:真先芳秋
校正:渥美浩子
1999年10月17日公開
2003年5月11日修正
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