机の上の紙を屑《くず》かごになげすてて、ファウンテン・ペンを物陰にほうりこんだ。そしてせかせかとあたりを見回したが、あわてながら眼窓《めまど》のカーテンをしめきった。そしてまた立ちすくんだ、自分の心の恐ろしさにまどいながら。
 外部では握《にぎ》り拳《こぶし》で続けさまに戸をたたいている。葉子はそわそわと裾前《すそまえ》をかき合わせて、肩越しに鏡を見やりながら涙をふいて眉《まゆ》をなでつけた。
 「早月さん!![#「!!」は横一列]」
 葉子はややしばしとつおいつ[#「とつおいつ」に傍点]躊躇《ちゅうちょ》していたが、とうとう決心して、何かあわてくさって、鍵《かぎ》をがちがち[#「がちがち」に傍点]やりながら戸をあけた。
 事務長はひどく酔ってはいって来た。どんなに飲んでも顔色もかえないほどの強酒《ごうしゅ》な倉地が、こんなに酔うのは珍しい事だった。締めきった戸に仁王立《におうだ》ちによりかかって、冷然とした様子で離れて立つ葉子をまじまじと見すえながら、
 「葉子さん、葉子さんが悪ければ早月さんだ。早月さん……僕のする事はするだけの覚悟があってするんですよ。僕はね、横浜以来あなたに惚《ほ》れていたんだ。それがわからないあなたじゃないでしょう。暴力? 暴力がなんだ。暴力は愚かなこった。殺したくなれば殺しても進んぜるよ」
 葉子はその最後の言葉を聞くと瞑眩《めまい》を感ずるほど有頂天になった。
 「あなたに木村さんというのが付いてるくらいは、横浜の支店長から聞かされとるんだが、どんな人だか僕はもちろん知りませんさ。知らんが僕のほうがあなたに深惚《ふかぼ》れしとる事だけは、この胸三寸でちゃん[#「ちゃん」に傍点]と知っとるんだ。それ、それがわからん? 僕は恥も何もさらけ出していっとるんですよ。これでもわからんですか」
 葉子は目をかがやかしながら、その言葉をむさぼった。かみしめた。そしてのみ込んだ。
 こうして葉子に取って運命的な一日は過ぎた。

    一八

 その夜船はビクトリヤに着いた。倉庫の立ちならんだ長い桟橋に"Car to the Town.Fare 15¢"と大きな白い看板に書いてあるのが夜目にもしるく葉子の眼窓《めまど》から見やられた。米国への上陸が禁ぜられているシナの苦力《クリー》がここから上陸するのと、相当の荷役とで、船の内外は急に騒々《そうぞう》しくなった。事務長は忙しいと見えてその夜はついに葉子の部屋《へや》に顔を見せなかった。そこいらが騒々しくなればなるほど葉子はたとえようのない平和を感じた。生まれて以来、葉子は生に固着した不安からこれほどまできれいに遠ざかりうるものとは思いも設けていなかった。しかもそれが空疎な平和ではない。飛び立っておどりたいほどの ecstasy を苦もなく押えうる強い力の潜んだ平和だった。すべての事に飽き足《た》った人のように、また二十五年にわたる長い苦しい戦いに始めて勝って兜《かぶと》を脱いだ人のように、心にも肉にも快い疲労を覚えて、いわばその疲れを夢のように味わいながら、なよなよとソファに身を寄せて灯火を見つめていた。倉地がそこにいないのが浅い心残りだった。けれどもなんといっても心安かった。ともすれば微笑が口びるの上をさざ波のようにひらめき過ぎた。
 けれどもその翌日から一等船客の葉子に対する態度は手のひらを返したように変わってしまった。一夜の間にこれほどの変化をひき起こす事のできる力を、葉子は田川夫人のほかに想像し得なかった。田川夫人が世に時めく良人《おっと》を持って、人の目に立つ交際をして、女盛りといい条、もういくらか下り坂であるのに引きかえて、どんな人の配偶にしてみても恥ずかしくない才能と容貌《ようぼう》とを持った若々しい葉子のたよりなげな身の上とが、二人《ふたり》に近づく男たちに同情の軽重を起こさせるのはもちろんだった。しかし道徳はいつでも田川夫人のような立場にある人の利器で、夫人はまたそれを有利に使う事を忘れない種類の人であった。そして船客たちの葉子に対する同情の底に潜む野心――はかない、野心ともいえないほどの野心――もう一ついい換《か》ゆれば、葉子の記憶に親切な男として、勇悍《ゆうかん》な男として、美貌《びぼう》な男として残りたいというほどな野心――に絶望の断定を与える事によって、その同情を引っ込めさせる事のできるのも夫人は心得ていた。事務長が自己の勢力範囲から離れてしまった事も不快の一つだった。こんな事から事務長と葉子との関係は巧妙な手段でいち早く船中に伝えられたに違いない。その結果として葉子はたちまち船中の社交から葬られてしまった。少なくとも田川夫人の前では、船客の大部分は葉子に対して疎々《よそよそ》しい態度をして見せるようになった。中にもいちばんあわれなのは岡だった。だれがなんと告げ口したのか知らないが、葉子が朝おそく目をさまして甲板《かんぱん》に出て見ると、いつものように手欄《てすり》によりかかって、もう内海になった波の色をながめていた彼は、葉子の姿を認めるや否や、ふいとその場をはずして、どこへか影を隠してしまった。それからというもの、岡はまるで幽霊のようだった。船の中にいる事だけは確かだが、葉子がどうかしてその姿を見つけたと思うと、次の瞬間にはもう見えなくなっていた。そのくせ葉子は思わぬ時に、岡がどこかで自分を見守っているのを確かに感ずる事がたびたびだった。葉子はその岡をあわれむ事すらもう忘れていた。
 結句船の中の人たちから度外視されるのを気安い事とまでは思わないでも、葉子はかかる結果にはいっこう無頓着《むとんじゃく》だった。もう船はきょうシヤトルに着くのだ。田川夫人やそのほかの船客たちのいわゆる「監視」の下《もと》に苦々《にがにが》しい思いをするのもきょう限りだ。そう葉子は平気で考えていた。
 しかし船がシヤトルに着くという事は、葉子にほかの不安を持ちきたさずにはおかなかった。シカゴに行って半年か一年木村と連れ添うほかはあるまいとも思った。しかし木部の時でも二か月とは同棲《どうせい》していなかったとも思った。倉地と離れては一日でもいられそうにはなかった。しかしこんな事を考えるには船がシヤトルに着いてからでも三日や四日の余裕はある。倉地はその事は第一に考えてくれているに違いない。葉子は今の平和をしいてこんな問題でかき乱す事を欲しなかったばかりでなくとてもできなかった。
 葉子はそのくせ、船客と顔を見合わせるのが不快でならなかったので、事務長に頼んで船橋に上げてもらった。船は今|瀬戸内《せとうち》のような狭い内海を動揺もなく進んでいた。船長はビクトリアで傭《やと》い入れた水先《みずさき》案内と二人ならんで立っていたが、葉子を見るといつものとおり顔をまっ赤《か》にしながら帽子を取って挨拶《あいさつ》した。ビスマークのような顔をして、船長より一《ひと》がけも二《ふた》がけも大きい白髪の水先案内はふと振り返ってじっ[#「じっ」に傍点]と葉子を見たが、そのまま向き直って、
 「Charmin' little lassie ! wha' is that ?」
 とスコットランド風《ふう》な強い発音で船長に尋ねた。葉子にはわからないつもりでいったのだ。船長があわてて何かささやくと、老人はからからと笑ってちょっと首を引っ込ませながら、もう一度振り返って葉子を見た。
 その毒気なくからからと笑う声が、恐ろしく気に入ったばかりでなく、かわいて晴れ渡った秋の朝の空となんともいえない調和をしていると思いながら葉子は聞いた。そしてその老人の背中でもなでてやりたいような気になった。船は小動《こゆる》ぎもせずにアメリカ松の生《は》え茂った大島小島の間を縫って、舷側《げんそく》に来てぶつかるさざ波の音ものどかだった。そして昼近くなってちょっとした岬《みさき》をくるり[#「くるり」に傍点]と船がかわすと、やがてポート・タウンセンドに着いた。そこでは米国官憲の検査が型ばかりあるのだ。くずした崕《がけ》の土で埋め立てをして造った、桟橋まで小さな漁村で、四角な箱に窓を明けたような、生々《なまなま》しい一色のペンキで塗り立てた二三階建ての家並《やな》みが、けわしい斜面に沿うて、高く低く立ち連なって、岡の上には水上げの風車が、青空に白い羽根をゆるゆる動かしながら、かったんこっとん[#「かったんこっとん」に傍点]とのんきらしく音を立てて回っていた。鴎《かもめ》が群れをなして猫《ねこ》に似た声でなきながら、船のまわりを水に近くのどかに飛び回るのを見るのも、葉子には絶えて久しい物珍しさだった。飴屋《あめや》の呼び売りのような声さえ町のほうから聞こえて来た。葉子はチャート・ルームの壁にもたれかかって、ぽかぽかとさす秋の日の光を頭から浴びながら、静かな恵み深い心で、この小さな町の小さな生活の姿をながめやった。そして十四日の航海の間に、いつのまにか海の心を心としていたのに気がついた。放埒《ほうらつ》な、移り気《ぎ》な、想像も及ばぬパッションにのたうち回ってうめき悩むあの大海原《おおうなばら》――葉子は失われた楽園を慕い望むイヴのように、静かに小さくうねる水の皺《しわ》を見やりながら、はるかな海の上の旅路を思いやった。
 「早月さん、ちょっとそこからでいい、顔を貸してください」
 すぐ下で事務長のこういう声が聞こえた。葉子は母に呼び立てられた少女のように、うれしさに心をときめかせながら、船橋の手欄《てすり》から下を見おろした。そこに事務長が立っていた。
 「One more over there,look!」
 こういいながら、米国の税関吏らしい人に葉子を指さして見せた。官吏はうなずきながら手帳に何か書き入れた。
 船はまもなくこの漁村を出発したが、出発するとまもなく事務長は船橋にのぼって来た。
 「Here we are! Seatle is as good as reached now.」
 船長にともなく葉子にともなくいって置いて、水先案内と握手しながら、
 「Thanks to you.」
 と付け足した。そして三人でしばらく快活に四方山《よもやま》の話をしていたが、ふと思い出したように葉子を顧みて、
 「これからまた当分は目が回るほど忙しくなるで、その前にちょっと御相談があるんだが、下に来てくれませんか」
 といった。葉子は船長にちょっと挨拶《あいさつ》を残して、すぐ事務長のあとに続いた。階子段《はしごだん》を降りる時でも、目の先に見える頑丈《がんじょう》な広い肩から一種の不安が抜け出て来て葉子に逼《せま》る事はもうなかった。自分の部屋《へや》の前まで来ると、事務長は葉子の肩に手をかけて戸をあけた。部屋の中には三四人の男が濃く立ちこめた煙草《たばこ》の煙の中に所狭く立ったり腰をかけたりしていた。そこには興録の顔も見えた。事務長は平気で葉子の肩に手をかけたままはいって行った。
 それは始終事務長や船医と一かたまりのグループを作って、サルンの小さなテーブルを囲んでウイスキーを傾けながら、時々他の船客の会話に無遠慮な皮肉や茶々を入れたりする連中だった。日本人が着るといかにもいや味に見えるアメリカ風の背広も、さして取ってつけたようには見えないほど、太平洋を幾度も往来したらしい人たちで、どんな職業に従事しているのか、そういう見分けには人一倍鋭敏な観察力を持っている葉子にすら見当がつかなかった。葉子がはいって行っても、彼らは格別自分たちの名前を名乗るでもなく、いちばん安楽な椅子《いす》に腰かけていた男が、それを葉子に譲って、自分は二つに折れるように小さくなって、すでに一人《ひとり》腰かけている寝台に曲がりこむと、一同はその様子に声を立てて笑ったが、すぐまた前どおり平気な顔をして勝手な口をきき始めた。それでも一座は事務長には一目《いちもく》置いているらしく、また事務長と葉子との関係も、事務長から残らず聞かされている様子だった。葉子はそういう人たちの間にあるのを結句気安く思った。彼らは葉子を下級船員のい
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