わゆる「姉御《あねご》」扱いにしていた。
 「向こうに着いたらこれで悶着《もんちゃく》ものだぜ。田川の嚊《かかあ》め、あいつ、一味噌《ひとみそ》すらずにおくまいて」
 「因業《いんごう》な生まれだなあ」
 「なんでも正面からぶっ突かって、いさくさいわせず決めてしまうほかはないよ」
 などと彼らは戯談《じょうだん》ぶった口調で親身《しんみ》な心持ちをいい現わした。事務長は眉《まゆ》も動かさずに、机によりかかって黙っていた。葉子はこれらの言葉からそこに居合わす人々の性質や傾向を読み取ろうとしていた。興録のほかに三人いた。その中の一人は甲斐絹《かいき》のどてら[#「どてら」に傍点]を着ていた。
 「このままこの船でお帰りなさるがいいね」
 とそのどてら[#「どてら」に傍点]を着た中年の世渡り巧者らしいのが葉子の顔を窺《うかが》い窺いいうと、事務長は少し屈託らしい顔をして物懶《ものう》げに葉子を見やりながら、
 「わたしもそう思うんだがどうだ」
 とたずねた。葉子は、
 「さあ……」
 と生返事《なまへんじ》をするほかなかった。始めて口をきく幾人もの男の前で、とっかは[#「とっかは」に傍点]物をいうのがさすがに億劫《おっくう》だった。興録は事務長の意向を読んで取ると、分別《ふんべつ》ぶった顔をさし出して、
 「それに限りますよ。あなた一つ病気におなりなさりゃ世話なしですさ。上陸したところが急に動くようにはなれない。またそういうからだでは検疫《けんえき》がとやかくやかましいに違いないし、この間のように検疫所でまっ裸にされるような事でも起これば、国際問題だのなんだのって始末におえなくなる。それよりは出帆まで船に寝ていらっしゃるほうがいいと、そこは私が大丈夫やりますよ。そしておいて船の出ぎわになってやはりどうしてもいけないといえばそれっきりのもんでさあ」
 「なに、田川の奥さんが、木村っていうのに、味噌《みそ》さえしこたますってくれればいちばんええのだが」
 と事務長は船医の言葉を無視した様子で、自分の思うとおりをぶっきらぼう[#「ぶっきらぼう」に傍点]にいってのけた。
 木村はそのくらいな事で葉子から手を引くようなはきはきした気象の男ではない。これまでもずいぶんいろいろなうわさが耳にはいったはずなのに「僕はあの女の欠陥も弱点もみんな承知している。私生児のあるのももとより知っている。ただ僕はクリスチャンである以上、なんとでもして葉子を救い上げる。救われた葉子を想像してみたまえ。僕はその時いちばん理想的な better half を持ちうると信じている」といった事を聞いている。東北人のねんじりむっつり[#「ねんじりむっつり」に傍点]したその気象が、葉子には第一我慢のしきれない嫌悪《けんお》の種だったのだ。
 葉子は黙ってみんなのいう事を聞いているうちに、興録の軍略がいちばん実際的だと考えた。そしてなれなれしい調子で興録を見やりながら、
 「興録さん、そうおっしゃればわたし仮病《けびょう》じゃないんですの。この間じゅうから診《み》ていただこうかしらと幾度か思ったんですけれども、あんまり大げさらしいんで我慢していたんですが、どういうもんでしょう……少しは船に乗る前からでしたけれども……お腹《なか》のここが妙に時々痛むんですのよ」
 というと、寝台に曲がりこんだ男はそれを聞きながらにやりにやり笑い始めた。葉子はちょっとその男をにらむようにして一緒に笑った。
 「まあ機《しお》の悪い時にこんな事をいうもんですから、痛い腹まで探られますわね……じゃ興録さん後ほど診《み》ていただけて?」
 事務長の相談というのはこんなたわいもない事で済んでしまった。
 二人《ふたり》きりになってから、
 「ではわたしこれからほんとうの病人になりますからね」
 葉子はちょっと倉地の顔をつついて、その口びるに触れた。そしてシヤトルの市街から起こる煤煙《ばいえん》が遠くにぼんやり望まれるようになったので、葉子は自分の部屋に帰った。そして洋風の白い寝衣《ねまき》に着かえて、髪を長い編み下げにして寝床にはいった。戯談《じょうだん》のようにして興録に病気の話をしたものの、葉子は実際かなり長い以前から子宮を害しているらしかった。腰を冷やしたり、感情が激昂《げきこう》したりしたあとでは、きっと収縮するような痛みを下腹部に感じていた。船に乗った当座は、しばらくの間は忘れるようにこの不快な痛みから遠ざかる事ができて、幾年ぶりかで申し所のない健康のよろこびを味わったのだったが、近ごろはまただんだん痛みが激しくなるようになって来ていた。半身が痲痺《まひ》したり、頭が急にぼーっと遠くなる事も珍しくなかった。葉子は寝床にはいってから、軽い疼《いた》みのある所をそっ[#「そっ」に傍点]と平手でさすりながら、船がシヤトルの波止場《はとば》に着く時のありさまを想像してみた。しておかなければならない事が数かぎりなくあるらしかったけれども、何をしておくという事もなかった。ただなんでもいいせっせ[#「せっせ」に傍点]と手当たり次第したくをしておかなければ、それだけの心尽くしを見せて置かなければ、目論見《もくろみ》どおり首尾が運ばないように思ったので、一ぺん横になったものをまたむくむくと起き上がった。
 まずきのう着た派手《はで》な衣類がそのまま散らかっているのを畳んでトランクの中にしまいこんだ。臥《ね》る時まで着ていた着物は、わざとはなやかな長襦袢《ながじゅばん》や裏地が見えるように衣紋竹《えもんだけ》に通して壁にかけた。事務長の置き忘れて行ったパイプや帳簿のようなものは丁寧に抽《ひ》き出《だ》しに隠した。古藤《ことう》が木村と自分とにあてて書いた二通の手紙を取り出して、古藤がしておいたように、枕《まくら》の下に差しこんだ。鏡の前には二人《ふたり》の妹と木村との写真を飾った。それから大事な事を忘れていたのに気がついて、廊下越しに興録を呼び出して薬びんや病床日記を調《ととの》えるように頼んだ。興録の持って来た薬びんから薬を半分がた痰壺《たんつぼ》に捨てた。日本から木村に持って行くように託された品々をトランクから取り分けた。その中からは故郷を思い出させるようないろいろな物が出て来た。香《にお》いまでが日本というものをほのかに心に触れさせた。
 葉子は忙《せわ》しく働かしていた手を休めて、部屋《へや》のまん中に立ってあたりを見回して見た。しぼんだ花束が取りのけられてなくなっているばかりで、あとは横浜を出た時のとおりの部屋の姿になっていた。旧《ふる》い記憶が香《こう》のようにしみこんだそれらの物を見ると、葉子の心はわれにもなくふとぐらつきかけたが、涙もさそわずに淡く消えて行った。
 フォクスルで起重機の音がかすかに響いて来るだけで、葉子の部屋は妙に静かだった。葉子の心は風のない池か沼の面のようにただどんよりとよどんでいた。からだはなんのわけもなくだるく物懶《ものう》かった。
 食堂の時計が引きしまった音で三時を打った。それを相図のように汽笛がすさまじく鳴り響いた。港にはいった相図をしているのだなと思った。と思うと今まで鈍く脈打つように見えていた胸が急に激しく騒ぎ動き出した。それが葉子の思いも設けぬ方向に動き出した。もうこの長い船旅も終わったのだ。十四五の時から新聞記者になる修業のために来たい来たいと思っていた米国に着いたのだ。来たいとは思いながらほんとうに来《こ》ようとは夢にも思わなかった米国に着いたのだ。それだけの事で葉子の心はもうしみじみとしたものになっていた。木村は狂うような心をしいて押ししずめながら、船の着くのを埠頭《ふとう》に立って涙ぐみつつ待っているだろう。そう思いながら葉子の目は木村や二人の妹の写真のほうにさまよって行った。それとならべて写真を飾っておく事もできない定子の事までが、哀れ深く思いやられた。生活の保障をしてくれる父親もなく、膝《ひざ》に抱き上げて愛撫《あいぶ》してやる母親にもはぐれたあの子は今あの池《いけ》の端《はた》のさびしい小家で何をしているのだろう。笑っているかと想像してみるのも悲しかった。泣いているかと想像してみるのもあわれだった。そして胸の中が急にわくわくとふさがって来て、せきとめる暇もなく涙がはらはらと流れ出た。葉子は大急ぎで寝台のそばに駆けよって、枕《まくら》もとにおいといたハンケチを拾い上げて目がしらに押しあてた。素直な感傷的な涙がただわけもなくあとからあとから流れた。この不意の感情の裏切りにはしかし引き入れられるような誘惑があった。だんだん底深く沈んで哀《かな》しくなって行くその思い、なんの思いとも定めかねた深い、わびしい、悲しい思い。恨みや怒りをきれいにぬぐい去って、あきらめきったようにすべてのものをただしみじみとなつかしく見せるその思い。いとしい定子、いとしい妹、いとしい父母、……なぜこんななつかしい世に自分の心だけがこう哀《かな》しく一人《ひとり》ぼっちなのだろう。なぜ世の中は自分のようなものをあわれむしかたを知らないのだろう。そんな感じの零細な断片がつぎつぎに涙にぬれて胸を引きしめながら通り過ぎた。葉子は知らず知らずそれらの感じにしっかり[#「しっかり」に傍点]すがり付こうとしたけれども無益だった。感じと感じとの間には、星のない夜のような、波のない海のような、暗い深い際涯《はてし》のない悲哀が、愛憎のすべてをただ一色に染めなして、ヌんよりと広がっていた。生を呪《のろ》うよりも死が願われるような思いが、逼《せま》るでもなく離れるでもなく、葉子の心にまつわり付いた。葉子は果ては枕《まくら》に顔を伏せて、ほんとうに自分のためにさめざめと泣き続けた。
 こうして小半時《こはんとき》もたった時、船は桟橋につながれたと見えて、二度目の汽笛が鳴りはためいた。葉子は物懶《ものう》げに頭をもたげて見た。ハンケチは涙のためにしぼるほどぬれて丸まっていた。水夫らが繋《つな》ぎ綱《づな》を受けたりやったりする音と、鋲釘《びょうくぎ》を打ちつけた靴《くつ》で甲板《かんぱん》を歩き回る音とが入り乱れて、頭の上はさながら火事場のような騒ぎだった。泣いて泣いて泣き尽くした子供のようなぼんやりした取りとめのない心持ちで、葉子は何を思うともなくそれを聞いていた。
 と突然戸外で事務長の、
 「ここがお部屋《へや》です」
 という声がした。それがまるで雷か何かのように恐ろしく聞こえた。葉子は思わずぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]となった。準備をしておくつもりでいながらなんの準備もできていない事も思った。今の心持ちは平気で木村に会える心持ちではなかった。おろおろしながら立ちは上がったが、立ち上がってもどうする事もできないのだと思うと、追いつめられた罪人のように、頭の毛を両手で押えて、髪の毛をむしりながら、寝台の上にがば[#「がば」に傍点]と伏さってしまった。
 戸があいた。
 「戸があいた」、葉子は自分自身に救いを求めるように、こう心の中でうめいた。そして息気《いき》もとまるほど身内がしゃちこ[#「しゃちこ」に傍点]ばってしまっていた。
 「早月《さつき》さん、木村さんが見えましたよ」
 事務長の声だ。あゝ事務長の声だ。事務長の声だ。葉子は身を震わせて壁のほうに顔を向けた。……事務長の声だ……。
 「葉子さん」
 木村の声だ。今度は感情に震えた木村の声が聞こえて来た。葉子は気が狂いそうだった。とにかく二人《ふたり》の顔を見る事はどうしてもできない。葉子は二人に背《うし》ろを向けますます壁のほうにもがきよりながら、涙の暇から狂人のように叫んだ。たちまち高くたちまち低いその震え声は笑っているようにさえ聞こえた。
 「出て……お二人ともどうか出て……この部屋を……後生《ごしょう》ですから今この部屋を……出てくださいまし……」
 木村はひどく不安げに葉子によりそってその肩に手をかけた。木村の手を感ずると恐怖と嫌悪《けんお》とのために身をちぢめて壁にしがみついた。
 「痛い……いけません……お腹《なか
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