して、
「よくもあなたはそんなに平気でいらっしゃるのね」
と力をこめるつもりでいったその声はいくじなくも泣かんばかりに震えていた。そして堰《せき》を切ったように涙が流れ出ようとするのを糸切り歯でかみきるばかりにしいてくいとめた。
事務長は驚いたらしかった。目を大きくして何かいおうとするうちに、葉子の舌は自分でも思い設けなかった情熱を帯びて震えながら動いていた。
「知っています。知っていますとも……。あなたはほんとに……ひどい方《かた》ですのね。わたしなんにも知らないと思ってらっしゃるのね。えゝ、わたしは存じません、存じません、ほんとに……」
何をいうつもりなのか自分でもわからなかった。ただ激しい嫉妬《しっと》が頭をぐらぐらさせるばかりに嵩《こう》じて来るのを知っていた。男がある機会には手傷も負わないで自分から離れて行く……そういういまいましい予想で取り乱されていた。葉子は生来こんなみじめなまっ暗な思いに捕えられた事がなかった。それは生命が見す見す自分から離れて行くのを見守るほどみじめでまっ暗だった。この人を自分から離れさすくらいなら殺してみせる、そう葉子はとっさに思いつめてみたりした。
葉子はもう我慢にもそこに立っていられなくなった。事務長に倒れかかりたい衝動をしいてじっとこらえながら、きれいに整えられた寝台にようやく腰をおろした。美妙な曲線を長く描いてのどかに開いた眉根《まゆね》は痛ましく眉間《みけん》に集まって、急にやせたかと思うほど細った鼻筋は恐ろしく感傷的な痛々しさをその顔に与えた。いつになく若々しく装った服装までが、皮肉な反語のように小股《こまた》の切れあがったやせ形《がた》なその肉を痛ましく虐《しいた》げた。長い袖《そで》の下で両手の指を折れよとばかり組み合わせて、何もかも裂いて捨てたいヒステリックな衝動を懸命に抑《おさ》えながら、葉子は唾《つば》も飲みこめないほど狂おしくなってしまっていた。
事務長は偶然に不思議を見つけた子供のような好奇なあきれた顔つきをして、葉子の姿を見やっていたが、片方のスリッパを脱ぎ落としたその白足袋《しろたび》の足もとから、やや乱れた束髪《そくはつ》までをしげしげと見上げながら、
「どうしたんです」
といぶかるごとく聞いた。葉子はひったくるようにさそく[#「さそく」に傍点]に返事をしようとしたけれども、どうしてもそれができなかった。倉地はその様子を見ると今度はまじめになった。そして口の端《はた》まで持って行った葉巻をそのままトレイの上に置いて立ち上がりながら、
「どうしたんです」
ともう一度聞きなおした。それと同時に、葉子も思いきり冷酷に、
「どうもしやしません」
という事ができた。二人《ふたり》の言葉がもつれ返ったように、二人の不思議な感情ももつれ合った。もうこんな所にはいない、葉子はこの上の圧迫には堪《た》えられなくなって、はなやかな裾《すそ》を蹴乱《けみだ》しながらまっしぐらに戸口のほうに走り出ようとした。事務長はその瞬間に葉子のなよやかな肩をさえぎりとめた。葉子はさえぎられて是非なく事務テーブルのそばに立ちすくんだが、誇りも恥も弱さも忘れてしまっていた。どうにでもなれ、殺すか死ぬかするのだ、そんな事を思うばかりだった。こらえにこらえていた涙を流れるに任せながら、事務長の大きな手を肩に感じたままで、しゃくり上げて恨めしそうに立っていたが、手近に飾ってある事務長の家族の写真を見ると、かっと気がのぼせて前後のわきまえもなく、それを引ったくるとともに両手にあらん限りの力をこめて、人殺しでもするような気負いでずた[#「ずた」に傍点]ずたに引き裂いた。そしてもみくたになった写真の屑《くず》を男の胸も透《とお》れと投げつけると、写真のあたったその所にかみつきもしかねまじき狂乱の姿となって、捨て身に武者ぶりついた。事務長は思わず身を退《ひ》いて両手を伸ばして走りよる葉子をせき止めようとしたが、葉子はわれにもなく我武者《がむしゃ》にすり入って、男の胸に顔を伏せた。そして両手で肩の服地を爪《つめ》も立てよとつかみながら、しばらく歯をくいしばって震えているうちに、それがだんだんすすり泣きに変わって行って、しまいににはさめざめと声を立てて泣きはじめた。そしてしばらくは葉子の絶望的な泣き声ばかりが部屋《へや》の中の静かさをかき乱して響いていた。
突然葉子は倉地の手を自分の背中に感じて、電気にでも触れたように驚いて飛びのいた。倉地に泣きながらすがりついた葉子が倉地からどんなものを受け取らねばならぬかは知れきっていたのに、優しい言葉でもかけてもらえるかのごとく振る舞った自分の矛盾にあきれて、恐ろしさに両手で顔をおおいながら部屋のすみに退《さが》って行った。倉地はすぐ近寄って来た。葉子は猫《ねこ》に見込まれたカナリヤのように身もだえしながら部屋の中を逃げにかかったが、事務長は手もなく追いすがって、葉子の二の腕を捕えて力まかせに引き寄せた。葉子も本気にあらん限りの力を出してさからった。しかしその時の倉地はもうふだんの倉地ではなくなっていた。けさ写真を見ていた時、後ろから葉子を抱きしめたその倉地が目ざめていた。怒《おこ》った野獣に見る狂暴な、防ぎようのない力があらしのように男の五体をさいなむらしく、倉地はその力の下にうめきもがきながら、葉子にまっしぐらにつかみかかった。
「またおれをばかにしやがるな」
という言葉がくいしばった歯の間から雷のように葉子の耳を打った。
あゝこの言葉――このむき出しな有頂点《うちょうてん》な興奮した言葉こそ葉子が男の口から確かに聞こうと待ち設けた言葉だったのだ。葉子は乱暴な抱擁の中にそれを聞くとともに、心のすみに軽い余裕のできたのを感じて自分というものがどこかのすみに頭をもたげかけたのを覚えた。倉地の取った態度に対して作為のある応対ができそうにさえなった。葉子は前どおりすすり泣きを続けてはいたが、その涙の中にはもう偽りのしずくすらまじっていた。
「いやです放して」
こういった言葉も葉子にはどこか戯曲的な不自然な言葉だった。しかし倉地は反対に葉子の一語一語に酔いしれて見えた。
「だれが離すか」
事務長の言葉はみじめにもかすれおののいていた。葉子はどんどん失った所を取り返して行くように思った。そのくせその態度は反対にますますたよりなげなやる瀬ないものになっていた。倉地の広い胸と太い腕との間に羽《は》がいに抱きしめられながら、小鳥のようにぶるぶると震えて、
「ほんとうに離してくださいまし」
「いやだよ」
葉子は倉地の接吻《せっぷん》を右に左によけながら、さらに激しくすすり泣いた。倉地は致命傷を受けた獣《けもの》のようにうめいた。その腕には悪魔のような血の流れるのが葉子にも感ぜられた。葉子は程《ほど》を見計らっていた。そして男の張りつめた情欲の糸が絶ち切れんばかりに緊張した時、葉子はふと泣きやんできっ[#「きっ」に傍点]と倉地の顔を振り仰いだ。その目からは倉地が思いもかけなかった鋭い強い光が放たれていた。
「ほんとうに放していただきます」
ときっぱり[#「きっぱり」に傍点]いって、葉子は機敏にちょっとゆるんだ倉地の手をすりぬけた。そしていち早く部屋《へや》を横筋かいに戸口まで逃げのびて、ハンドルに手をかけながら、
「あなたはけさこの戸に鍵《かぎ》をおかけになって、……それは手籠《てご》めです……わたし……」
といって少し情に激してうつむいてまた何かいい続けようとするらしかったが、突然戸をあけて出て行ってしまった。
取り残された倉地はあきれてしばらく立っているようだったが、やがて英語で乱暴な呪詛《じゅそ》を口走りながら、いきなり部屋を出て葉子のあとを追って来た。そしてまもなく葉子の部屋の所に来てノックした。葉子は鍵をかけたまま黙って答えないでいた。事務長はなお二三度ノックを続けていたが、いきなり何か大声で物をいいながら船医の興録の部屋にはいるのが聞こえた。
葉子は興録が事務長のさしがね[#「さしがね」に傍点]でなんとかいいに来るだろうとひそかに心待ちにしていた。ところがなんともいって来ないばかりか、船医室からは時々あたりをはばからない高笑いさえ聞こえて、事務長は容易にその部屋《へや》を出て行きそうな気配《けはい》もなかった。葉子は興奮に燃え立ついらいらした心でそこにいる事務長の姿をいろいろ想像していた。ほかの事は一つも頭の中にははいって来なかった。そしてつくづく自分の心の変わりかたの激しさに驚かずにはいられなかった。「定子! 定子!」葉子は隣にいる人を呼び出すような気で小さな声を出してみた。その最愛の名を声にまで出してみても、その響きの中には忘れていた夢を思い出したほどの反応《こたえ》もなかった。どうすれば人の心というものはこんなにまで変わり果てるものだろう。葉子は定子をあわれむよりも、自分の心をあわれむために涙ぐんでしまった。そしてなんの気なしに小卓の前に腰をかけて、大切なものの中にしまっておいた、そのころ日本では珍しいファウンテン・ペンを取り出して、筆の動くままにそこにあった紙きれに字を書いてみた。
[#ここより引用文、本文より一字下げ]
「女の弱き心につけ入りたもうはあまりに酷《むご》きお心とただ恨めしく存じ参らせ候《そろ》妾《わらわ》の運命はこの船に結ばれたる奇《く》しきえにしや候《そうら》いけん心がらとは申せ今は過去のすべて未来のすべてを打ち捨ててただ目の前の恥ずかしき思いに漂うばかりなる根なし草の身となり果て参らせ候を事もなげに見やりたもうが恨めしく恨めしく死」
[#引用文ここまで]
となんのくふうもなく、よく意味もわからないで一瀉千里《いっしゃせんり》に書き流して来たが、「死」という字に来ると、葉子はペンも折れよといらいらしくその上を塗り消した。思いのままを事務長にいってやるのは、思い存分自分をもてあそべといってやるのと同じ事だった。葉子は怒りに任せて余白を乱暴にいたずら書きでよごしていた。
と、突然船医の部屋から高々と倉地の笑い声が聞こえて来た。葉子はわれにもなく頭《つむり》を上げて、しばらく聞き耳を立ててから、そっ[#「そっ」に傍点]と戸口に歩み寄ったが、あとはそれなりまた静かになった。
葉子は恥ずかしげに座に戻《もど》った。そして紙の上に思い出すままに勝手な字を書いたり、形の知れない形を書いてみたりしながら、ずきん[#「ずきん」に傍点]ずきんと痛む頭をぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]と肘《ひじ》をついた片手で押えてなんという事もなく考えつづけた。
念が届けば木村にも定子にもなんの用があろう。倉地の心さえつかめばあとは自分の意地《いじ》一つだ。そうだ。念が届かなければ……念が届かなければ……届かなければあらゆるものに用がなくなるのだ。そうしたら美しく死のうねえ。……どうして……私はどうして……けれども……葉子はいつのまにか純粋に感傷的になっていた。自分にもこんなおぼこ[#「おぼこ」に傍点]な思いが潜んでいたかと思うと、抱いてなでさすってやりたいほど自分がかわゆくもあった。そして木部と別れて以来絶えて味わわなかったこの甘い情緒に自分からほだされおぼれて、心中《しんじゅう》でもする人のような、恋に身をまかせる心安さにひたりながら小机に突っ伏してしまった。
やがて酔いつぶれた人のように頭《つむり》をもたげた時は、とうに日がかげって部屋の中にははなやかに電燈がともっていた。
いきなり船医の部屋の戸が乱暴に開かれる音がした。葉子ははっ[#「はっ」に傍点]と思った。その時葉子の部屋の戸にどたり[#「どたり」に傍点]と突きあたった人の気配がして、「早月《さつき》さん」と濁って塩がれた事務長の声がした。葉子は身のすくむような衝動を受けて、思わず立ち上がってたじろぎながら部屋のすみに逃げかくれた。そしてからだじゅうを耳のようにしていた。
「早月《さつき》さんお願いだ。ちょっとあけてください」
葉子は手早く小
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