握り合わせて膝《ひざ》の上のハンケチの包みを押えながら、下駄《げた》の先をじっ[#「じっ」に傍点]と見入ってしまった。今は車内の人が申し合わせて侮辱でもしているように葉子には思えた。古藤が隣座《となりざ》にいるのさえ、一種の苦痛だった。その瞑想的《めいそうてき》な無邪気な態度が、葉子の内部的経験や苦悶《くもん》と少しも縁が続いていないで、二人《ふたり》の間には金輸際《こんりんざい》理解が成り立ち得ないと思うと、彼女は特別に毛色の変わった自分の境界《きょうがい》に、そっとうかがい寄ろうとする探偵《たんてい》をこの青年に見いだすように思って、その五|分刈《ぶが》りにした地蔵頭《じぞうあたま》までが顧みるにも足りない木のくずかなんぞのように見えた。
 やせた木部の小さな輝いた目は、依然として葉子を見つめていた。
 なぜ木部はかほどまで自分を侮辱するのだろう。彼は今でも自分を女とあなどっている。ちっぽけな才力を今でも頼んでいる。女よりも浅ましい熱情を鼻にかけて、今でも自分の運命に差し出がましく立ち入ろうとしている。あの自信のない臆病《おくびょう》な男に自分はさっき媚《こ》びを見せようとしたのだ。そして彼は自分がこれほどまで誇りを捨てて与えようとした特別の好意を眦《まなじり》を反《かえ》して退けたのだ。
 やせた木部の小さな目は依然として葉子を見つめていた。
 この時突然けたたましい笑い声が、何か熱心に話し合っていた二人《ふたり》の中年の紳士の口から起こった。その笑い声と葉子となんの関係もない事は葉子にもわかりきっていた。しかし彼女はそれを聞くと、もう欲にも我慢がしきれなくなった。そして右の手を深々《ふかぶか》と帯の間にさし込んだまま立ち上がりざま、
 「汽車に酔ったんでしょうかしらん、頭痛がするの」
 と捨てるように古藤にいい残して、いきなり[#「いきなり」に傍点]繰り戸をあけてデッキに出た。
 だいぶ高くなった日の光がぱっと大森田圃《おおもりたんぼ》に照り渡って、海が笑いながら光るのが、並み木の向こうに広すぎるくらい一どきに目にはいるので、軽い瞑眩《めまい》をさえ覚えるほどだった。鉄の手欄《てすり》にすがって振り向くと、古藤が続いて出て来たのを知った。その顔には心配そうな驚きの色が明《あか》らさまに現われていた。
 「ひどく痛むんですか」
 「ええかなりひどく」
 と答えたがめんどうだと思って、
 「いいからはいっていてください。おおげさに見えるといやですから……大丈夫あぶなかありませんとも……」
 といい足した。古藤はしいてとめようとはしなかった。そして、
 「それじゃはいっているがほんとうにあぶのうござんすよ……用があったら呼んでくださいよ」
 とだけいって素直《すなお》にはいって行った。
 「Simpleton!」
 葉子は心の中でこうつぶやくと、焼き捨てたように古藤の事なんぞは忘れてしまって、手欄《てすり》に臂《ひじ》をついたまま放心して、晩夏の景色をつつむ引き締まった空気に顔をなぶらした。木部の事も思わない。緑や藍《あい》や黄色のほか、これといって輪郭のはっきり[#「はっきり」に傍点]した自然の姿も目に映らない。ただ涼しい風がそよそよと鬢《びん》の毛をそよがして通るのを快いと思っていた。汽車は目まぐるしいほどの快速力で走っていた。葉子の心はただ渾沌《こんとん》と暗く固まった物のまわりを飽きる事もなく幾度も幾度も左から右に、右から左に回っていた。こうして葉子にとっては長い時間が過ぎ去ったと思われるころ、突然頭の中を引っかきまわすような激しい音を立てて、汽車は六郷川《ろくごうがわ》の鉄橋を渡り始めた。葉子は思わずぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として夢からさめたように前を見ると、釣《つ》り橋《ばし》の鉄材が蛛手《くもで》になって上を下へと飛びはねるので、葉子は思わずデッキのパンネルに身を退《ひ》いて、両袖《りょうそで》で顔を抑《おさ》えて物を念じるようにした。
 そうやって気を静めようと目をつぶっているうちに、まつ毛を通し袖を通して木部の顔とことにその輝く小さな両眼とがまざまざと想像に浮かび上がって来た。葉子の神経は磁石《じしゃく》に吸い寄せられた砂鉄のように、堅くこの一つの幻像の上に集注して、車内にあった時と同様な緊張した恐ろしい状態に返った。停車場に近づいた汽車はだんだんと歩度をゆるめていた。田圃《たんぼ》のここかしこに、俗悪な色で塗り立てた大きな広告看板が連ねて建ててあった。葉子は袖《そで》を顔から放して、気持ちの悪い幻像を払いのけるように、一つ一つその看板を見迎え見送っていた。所々《ところどころ》に火が燃えるようにその看板は目に映って木部の姿はまたおぼろになって行った。その看板の一つに、長い黒髪を下げた姫が経巻《きょうかん》を持っているのがあった。その胸に書かれた「中将湯《ちゅうじょうとう》」という文字を、何《なに》げなしに一字ずつ読み下すと、彼女は突然私生児の定子の事を思い出した。そしてその父なる木部の姿は、かかる乱雑な連想の中心となって、またまざまざと焼きつくように現われ出た。
 その現われ出た木部の顔を、いわば心の中の目で見つめているうちに、だんだんとその鼻の下から髭《ひげ》が消えうせて行って、輝くひとみの色は優しい肉感的な温《あたた》かみを持ち出して来た。汽車は徐々に進行をゆるめていた。やや荒れ始めた三十男の皮膚の光沢《つや》は、神経的な青年の蒼白《あおじろ》い膚の色となって、黒く光った軟《やわ》らかい頭《つむり》の毛がきわ立って白い額をなでている。それさえがはっきり[#「はっきり」に傍点]見え始めた。列車はすでに川崎《かわさき》停車場のプラットフォームにはいって来た。葉子の頭の中では、汽車が止まりきる前に仕事をし遂《おお》さねばならぬというふうに、今見たばかりの木部の姿がどんどん若やいで行った。そして列車が動かなくなった時、葉子はその人のかたわらにでもいるように恍惚《うっとり》とした顔つきで、思わず知らず左手を上げて――小指をやさしく折り曲げて――軟《やわ》らかい鬢《びん》の後《おく》れ毛《げ》をかき上げていた。これは葉子が人の注意をひこうとする時にはいつでもする姿態《しな》である。
 この時、繰り戸がけたたましくあいたと思うと、中から二三人の乗客がどやどやと現われ出て来た。
 しかもその最後から、涼しい色合いのインバネスを羽織《はお》った木部が続くのを感づいて、葉子の心臓は思わずはっ[#「はっ」に傍点]と処女の血を盛《も》ったようにときめいた。木部が葉子の前まで来てすれすれにそのそばを通り抜けようとした時、二人《ふたり》の目はもう一度しみじみと出あった。木部の目は好意を込めた微笑にひたされて、葉子の出ようによっては、すぐにも物をいい出しそうに口びるさえ震えていた。葉子も今まで続けていた回想の惰力に引かされて、思わずほほえみかけたのであったが、その瞬間|燕返《つばめがえ》しに、見も知りもせぬ路傍の人に与えるような、冷刻な驕慢《きょうまん》な光をそのひとみから射出《いだ》したので、木部の微笑は哀れにも枝を離れた枯れ葉のように、二人の間をむなしくひらめいて消えてしまった。葉子は木部のあわてかたを見ると、車内で彼から受けた侮辱にかなり小気味よく酬《むく》い得たという誇りを感じて、胸の中がややすがすがしくなった。木部はやせたその右肩を癖のように怒らしながら、急ぎ足に濶歩《かっぽ》して改札口の所に近づいたが、切符を懐中から出すために立ち止まった時、深い悲しみの色を眉《まゆ》の間にみなぎらしながら、振り返ってじっ[#「じっ」に傍点]と葉子の横顔に目を注いだ。葉子はそれを知りながらもとより侮蔑《ぶべつ》の一瞥《いちべつ》をも与えなかった。
 木部が改札口を出て姿が隠れようとした時、今度は葉子の目がじっ[#「じっ」に傍点]とその後ろ姿を逐《お》いかけた。木部が見えなくなった後も、葉子の視線はそこを離れようとはしなかった。そしてその目にはさびしく涙がたまっていた。
 「また会う事があるだろうか」
 葉子はそぞろに不思議な悲哀を覚えながら心の中でそういっていたのだった。

    四

 列車が川崎駅を発すると、葉子はまた手欄《てすり》によりかかりながら木部の事をいろいろと思いめぐらした。やや色づいた田圃《たんぼ》の先に松並み木が見えて、その間《あいだ》から低く海の光る、平凡な五十三|次風《つぎふう》な景色が、電柱で句読《くとう》を打ちながら、空洞《うつろ》のような葉子の目の前で閉じたり開いたりした。赤とんぼも飛びかわす時節で、その群れが、燧石《ひうちいし》から打ち出される火花のように、赤い印象を目の底に残して乱れあった。いつ見ても新開地じみて見える神奈川《かながわ》を過ぎて、汽車が横浜の停車場に近づいたころには、八時を過ぎた太陽の光が、紅葉坂《もみじざか》の桜並み木を黄色く見せるほどに暑く照らしていた。
 煤煙《ばいえん》でまっ黒にすすけた煉瓦《れんが》壁の陰に汽車が停《と》まると、中からいちばん先に出て来たのは、右手にかのオリーヴ色の包み物を持った古藤だった。葉子はパラソルを杖《つえ》に弱々しくデッキを降りて、古藤に助けられながら改札口を出たが、ゆるゆる歩いている間に乗客は先《さき》を越してしまって、二人《ふたり》はいちばんあとになっていた。客を取りおくれた十四五人の停車場づきの車夫が、待合部屋《まちあいべや》の前にかたまりながら、やつれて見える葉子に目をつけて何かとうわさし合うのが二人の耳にもはいった。「むすめ」「らしゃめん」というような言葉さえそのはしたない言葉の中には交じっていた。開港場のがさつ[#「がさつ」に傍点]な卑しい調子は、すぐ葉子の神経にびり[#「びり」に傍点]びりと感じて来た。
 何しろ葉子は早く落ち付く所を見つけ出したかった。古藤は停車場の前方の川添いにある休憩所まで走って[#底本では「走つて」、22−18]行って見たが、帰って来るとぶり[#「ぶり」に傍点]ぶりして、駅夫あがりらしい茶店の主人は古藤の書生っぽ姿をいかにもばかにしたような断わりかたをしたといった。二人はしかたなくうるさく付きまつわる車夫を追い払いながら、潮の香の漂った濁った小さな運河を渡って、ある狭いきたない町の中ほどにある一軒の小さな旅人宿にはいって行った。横浜という所には似もつかぬような古風な外構《そとがま》えで、美濃紙《みのがみ》のくすぶり返った置き行燈《あんどん》には太い筆つきで相模屋《さがみや》と書いてあった。葉子はなんとなくその行燈に興味をひかれてしまっていた。いたずら好きなその心は、嘉永《かえい》ごろの浦賀《うらが》にでもあればありそうなこの旅籠屋《はたごや》に足を休めるのを恐ろしくおもしろく思った。店にしゃがんで、番頭と何か話しているあばずれ[#「あばずれ」に傍点]たような女中までが目にとまった。そして葉子が体《てい》よく物を言おうとしていると、古藤がいきなり取りかまわない調子で、
 「どこか静かな部屋《へや》に案内してください」
 と無愛想《ぶあいそ》に先《さき》を越してしまった。
 「へいへい、どうぞこちらへ」
 女中は二人をまじまじと見やりながら、客の前もかまわず、番頭と目を見合わせて、さげすんだらしい笑いをもらして案内に立った。
 ぎし[#「ぎし」に傍点]ぎしと板ぎしみのするまっ黒な狭い階子段《はしごだん》を上がって、西に突き当たった六畳ほどの狭い部屋《へや》に案内して、突っ立ったままで荒っぽく二人を不思議そうに女中は見比べるのだった。油じみた襟元《えりもと》を思い出させるような、西に出窓のある薄ぎたない部屋の中を女中をひっくるめてにらみ回しながら古藤は、
 「外部《そと》よりひどい……どこか他所《よそ》にしましょうか」
 と葉子を見返った。葉子はそれには耳もかさずに、思慮深い貴女《きじょ》のような物腰で女中のほうに向いていった。
 「隣室《となり》も明いていますか……そう。夜まではどこも明いている……
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