は軽く汗ばむほど暖まっていた。三日の間狭い部屋の中ばかりにいてすわり疲れ寝疲れのした葉子は、狭苦しい寝台《バース》の中に窮屈に寝ちぢまった自分を見いだすと、下になった半身に軽いしびれを覚えて、からだを仰向けにした。そして一度開いた目を閉じて、美しく円味《まるみ》を持った両の腕を頭の上に伸ばして、寝乱れた髪をもてあそびながら、さめぎわの快い眠りにまた静かに落ちて行った。が、ほどもなくほんとうに目をさますと、大きく目を見開いて、あわてたように腰から上を起こして、ちょうど目通りのところにあるいちめんに水気で曇った眼窓《めまど》を長い袖《そで》で押しぬぐって、ほてった頬《ほお》をひやひやするその窓ガラスにすりつけながら外を見た、夜はほんとうには明け離れていないで、窓の向こうには光のない濃い灰色がどんより[#「どんより」に傍点]と広がっているばかりだった。そして自分のからだがずっ[#「ずっ」に傍点]と高まってやがてまた落ちて行くなと思わしいころに、窓に近い舷《げん》にざあっ[#「ざあっ」に傍点]とあたって砕けて行く波濤《はとう》が、単調な底力のある震動を船室に与えて、船はかすかに横にかしいだ。葉子は身動きもせずに目にその灰色をながめながら、かみしめるように船の動揺を味わって見た。遠く遠く来たという旅情が、さすがにしみじみと感ぜられた。しかし葉子の目には女らしい涙は浮かばなかった。活気のずんずん回復しつつあった彼女には何かパセティックな夢でも見ているような思いをさせた。
葉子はそうしたままで、過ぐる二日の間暇にまかせて思い続けた自分の過去を夢のように繰り返していた。連絡のない終わりのない絵巻がつぎつぎに広げられたり巻かれたりした。キリストを恋い恋うて、夜も昼もやみがたく、十字架を編み込んだ美しい帯を作って献《ささ》げようと一心に、日課も何もそっちのけにして、指の先がささくれるまで編み針を動かした可憐《かれん》な少女も、その幻想の中に現われ出た。寄宿舎の二階の窓近く大きな花を豊かに開いた木蘭《もくらん》の香《にお》いまでがそこいらに漂っているようだった。国分寺《こくぶんじ》跡の、武蔵野《むさしの》の一角らしい櫟《くぬぎ》の林も現われた。すっかり少女のような無邪気な素直《すなお》な心になってしまって、孤※[#「※」は「たけかんむりにエにふしづくり」、98−1]《こきょう》の膝《ひざ》に身も魂も投げかけながら、涙とともにささやかれる孤※[#「※」は「たけかんむりにエにふしづくり」、98−2]の耳うちのように震えた細い言葉を、ただ「はいはい」と夢心地にうなずいてのみ込んだ甘い場面は、今の葉子とは違った人のようだった。そうかと思うと左岸の崕《がけ》の上から広瀬川《ひろせがわ》を越えて青葉山《あおばやま》をいちめんに見渡した仙台の景色がするすると開け渡った。夏の日は北国の空にもあふれ輝いて、白い礫《こいし》の河原《かわら》の間をまっさおに流れる川の中には、赤裸《あかはだか》な少年の群れが赤々とした印象を目に与えた。草を敷かんばかりに低くうずくまって、はなやかな色合いのパラソルに日をよけながら、黙って思いにふける一人《ひとり》の女――その時には彼女はどの意味からも女だった――どこまでも満足の得られない心で、だんだんと世間から埋《うず》もれて行かねばならないような境遇に押し込められようとする運命。確かに道を踏みちがえたとも思い、踏みちがえたのは、だれがさした事だと神をすらなじってみたいような思い。暗い産室も隠れてはいなかった。そこの恐ろしい沈黙の中から起こる強い快い赤児《あかご》の産声《うぶごえ》――やみがたい母性の意識――「われすでに世に勝てり」とでもいってみたい不思議な誇り――同時に重く胸を押えつける生の暗い急変。かかる時思いも設けず力強く迫って来る振り捨てた男の執着。あすをも頼み難い命の夕闇《ゆうやみ》にさまよいながら、切れ切れな言葉で葉子と最後の妥協を結ぼうとする病床の母――その顔は葉子の幻zを断ち切るほどの強さで現われ出た。思い入った決心を眉《まゆ》に集めて、日ごろの楽天的な性情にも似ず、運命と取り組むような真剣な顔つきで大事の結着を待つ木村の顔。母の死をあわれむとも悲しむとも知れない涙を目にはたたえながら、氷のように冷え切った心で、うつむいたまま、口一つきかない葉子自身の姿……そんな幻像《まぼろし》があるいはつぎつぎに、あるいは折り重なって、灰色の霧の中に動き現われた。そして記憶はだんだんと過去から現在のほうに近づいて来た。と、事務長の倉地の浅黒く日に焼けた顔と、その広い肩とが思い出された。葉子は思いもかけないものを見いだしたようにはっ[#「はっ」に傍点]となると、その幻像はたわいもなく消えて、記憶はまた遠い過去に帰って行った。それがまただんだん現在のほうに近づいて来たと思うと、最後にはきっと倉地の姿が現われ出た。
それが葉子をいらいらさせて、葉子は始めて夢現《ゆめうつつ》の境からほんとうに目ざめて、うるさいものでも払いのけるように、眼窓《めまど》から目をそむけて寝台《バース》を離れた。葉子の神経は朝からひどく興奮していた。スティームで存分に暖まって来た船室の中の空気は息気《いき》苦しいほどだった。
船に乗ってからろくろく運動もせずに、野菜気《やさいけ》の少ない物ばかりをむさぼり食べたので、身内の血には激しい熱がこもって、毛のさきへまでも通うようだった。寝台《バース》から立ち上がった葉子は瞑眩《めまい》を感ずるほどに上気して、氷のような冷たいものでもひし[#「ひし」に傍点]と抱きしめたい気持ちになった。で、ふらふらと洗面台のほうに行って、ピッチャーの水をなみなみと陶器製の洗面盤にあけて、ずっぷり[#「ずっぷり」に傍点]ひたした手ぬぐいをゆるく絞って、ひやっ[#「ひやっ」に傍点]とするのを構わず、胸をあけて、それを乳房と乳房との間にぐっ[#「ぐっ」に傍点]とあてがってみた。強いはげしい動悸《どうき》が押えている手のひらへ突き返して来た。葉子はそうしたままで前の鏡に自分の顔を近づけて見た。まだ夜の気が薄暗くさまよっている中に、頬《ほお》をほてらしながら深い呼吸をしている葉子の顔が、自分にすら物すごいほどなまめかしく映っていた。葉子は物好きらしく自分の顔に訳のわからない微笑をたたえて見た。
それでもそのうちに葉子の不思議な心のどよめきはしずまって行った。しずまって行くにつれ、葉子は今までの引き続きでまた瞑想的《めいそうてき》な気分に引き入れられていた。しかしその時はもう夢想家ではなかった。ごく実際的な鋭い頭が針のように光ってとがっていた。葉子はぬれ手ぬぐいを洗面盤にほうりなげておいて、静かに長椅子《ながいす》に腰をおろした。
笑い事ではない。いったい自分はどうするつもりでいるんだろう。そう葉子は出発以来の問いをもう一度自分に投げかけてみた。小さい時からまわりの人たちにはばかられるほど才はじけて、同じ年ごろの女の子とはいつでも一調子違った行きかたを、するでもなくして来なければならなかった自分は、生まれる前から運命にでも呪《のろ》われているのだろうか。それかといって葉子はなべての女の順々に通《とお》って行く道を通る事はどうしてもできなかった。通って見ようとした事は幾度あったかわからない。こうさえ行けばいいのだろうと通って来て見ると、いつでも飛んでもなく違った道を歩いている自分を見いだしてしまっていた。そしてつまずいては倒れた。まわりの人たちは手を取って葉子を起こしてやる仕方《しかた》も知らないような顔をしてただばからしくあざわらっている。そんなふうにしか葉子には思えなかった。幾度ものそんな苦い経験が葉子を片意地な、少しも人をたよろうとしない女にしてしまった。そして葉子はいわば本能の向かせるように向いてどんどん歩くよりしかたがなかった。葉子は今さらのように自分のまわりを見回して見た。いつのまにか葉子はいちばん近しいはずの人たちからもかけ離れて、たった一人《ひとり》で崕《がけ》のきわに立っていた。そこでただ一つ葉子を崕の上につないでいる綱には木村との婚約という事があるだけだ。そこに踏みとどまればよし、さもなければ、世の中との縁はたちどころに切れてしまうのだ。世の中に活《い》きながら世の中との縁が切れてしまうのだ。木村との婚約で世の中は葉子に対して最後の和睦《わぼく》を示そうとしているのだ。葉子に取って、この最後の機会をも破り捨てようというのはさすがに容易ではなかった。木村といふ首桎《くびかせ》を受けないでは生活の保障が絶え果てなければならないのだから。葉子の懐中には百五十ドルの米貨があるばかりだった。定子の養育費だけでも、米国に足をおろすや否や、すぐに木村にたよらなければならないのは目の前にわかっていた。後詰《ごづ》めとなってくれる親類の一人もないのはもちろんの事、ややともすれば親切ごかしに無いものまでせびり取ろうとする手合いが多いのだ。たまたま葉子の姉妹の内実を知って気の毒だと思っても、葉子ではというように手出しを控えるものばかりだった。木村――葉子には義理にも愛も恋も起こり得ない木村ばかりが、葉子に対するただ一人の戦士なのだ。あわれなリ村は葉子の蠱惑《チャーム》に陥ったばかりで、早月家《さつきけ》の人々から否応《いやおう》なしにこの重い荷を背負わされてしまっているのだ。
どうしてやろう。
葉子は思い余ったその場のがれから、箪笥《たんす》の上に興録《こうろく》から受け取ったまま投げ捨てて置いた古藤の手紙を取り上げて、白い西洋封筒の一端を美しい指の爪《つめ》で丹念《たんねん》に細く破り取って、手筋は立派ながらまだどこかたどたどしい手跡でペンで走り書きした文句を読み下して見た。
[#ここから引用文、本文より一字下げ]
「あなたはおさんどん[#「おさんどん」に傍点]になるという事を想像してみる事ができますか。おさんどん[#「おさんどん」に傍点]という仕事が女にあるという事を想像してみる事ができますか。僕はあなたを見る時はいつでもそう思って不思議な心持ちになってしまいます。いったい世の中には人を使って、人から使われるという事を全くしないでいいという人があるものでしょうか。そんな事ができうるものでしょうか。僕はそれをあなたに考えていただきたいのです。
あなたは奇態な感じを与える人です。あなたのなさる事はどんな危険な事でも危険らしく見えません。行きづまった末にはこうという覚悟がちゃん[#「ちゃん」に傍点]とできているように思われるからでしょうか。
僕があなたに始めてお目にかかったのは、この夏あなたが木村君と一緒に八幡《やわた》に避暑をしておられた時ですから、あなたについては僕は、なんにも知らないといっていいくらいです。僕は第一一般的に女というものについてなんにも知りません。しかし少しでもあなたを知っただけの心持ちからいうと、女の人というものは僕に取っては不思議な謎《なぞ》です。あなたはどこまで行ったら行きづまると思っているんです。あなたはすでに木村君で行きづまっている人なんだと僕には思われるのです。結婚を承諾した以上はその良人《おっと》に行きづまるのが女の人の当然な道ではないでしょうか。木村君で行きづまってください。木村君にあなたを全部与えてください。木村君の親友としてこれが僕の願いです。
全体同じ年齢でありながら、あなたからは僕などは子供に見えるのでしょうから、僕のいう事などは頓着《とんじゃく》なさらないかと思いますが、子供にも一つの直覚はあります。そして子供はきっぱり[#「きっぱり」に傍点]した物の姿が見たいのです。あなたが木村君の妻になると約束した以上は、僕のいう事にも権威があるはずだと思います。
僕はそうはいいながら一面にはあなたがうらやましいようにも、憎いようにも、かわいそうなようにも思います。あなたのなさる事が僕の理性を裏切って奇怪な同情を喚《よ》び起こすようにも思います。僕は心の底に起こるこんな働きをもしいて
前へ
次へ
全34ページ中15ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング