が食卓に背を向けてずらっ[#「ずらっ」に傍点]とならべてある食堂の中ほどから、横丁《よこちょう》のような暗い廊下をちょっとはいると、右の戸に「医務室」と書いた頑丈《がんじょう》な真鍮《しんちゅう》の札がかかっていて、その向かいの左の戸には「No.12 早月葉子殿」と白墨で書いた漆塗《うるしぬ》りの札が下がっていた。船員はつか[#「つか」に傍点]つかとそこにはいって、いきなり勢いよく医務室の戸をノックすると、高いダブル・カラーの前だけをはずして、上着を脱ぎ捨てた船医らしい男が、あたふたと細長いなま白い顔を突き出したが、そこに葉子が立っているのを目ざとく見て取って、あわてて首を引っ込めてしまった。船員は大きなはばかりのない声で、
 「おい十二番はすっかり[#「すっかり」に傍点]掃除《そうじ》ができたろうね」
 というと、医務室の中からは女のような声で、
 「さしておきましたよ。きれいになってるはずですが、御覧なすってください。わたしは今ちょっと」
 と船医は姿を見せずに答えた。
 「こりゃいったい船医の私室《プライベート》なんですが、あなたのためにお明け申すっていってくれたもんですから、ボーイに掃除するようにいいつけておきましたんです。ど、きれいになっとるかしらん」
 船員はそうつぶやきながら戸をあけて一わたり中を見回した。
 「むゝ、いいようです」
 そして道を開いて、衣嚢《かくし》から「日本郵船会社|絵島丸《えじままる》事務長勲六等|倉地三吉《くらちさんきち》」と書いた大きな名刺を出して葉子に渡しながら、
 「わたしが事務長をしとります。御用があったらなんでもどうか」
 葉子はまた黙ったままうなずいてその大きな名刺を手に受けた。そして自分の部屋《へや》ときめられたその部屋の高い閾《しきい》を越えようとすると、
 「事務長さんはそこでしたか」
 と尋ねながら田川博士がその夫人と打ち連れて廊下の中に立ち現われた。事務長が帽子を取って挨拶《あいさつ》しようとしている間に、洋装の田川夫人は葉子を目ざして、スカーツの絹ずれの音を立てながらつか[#「つか」に傍点]つかと寄って来て眼鏡《めがね》の奥から小さく光る目でじろり[#「じろり」に傍点]と見やりながら、
 「五十川さんがうわさしていらしった方はあなたね。なんとかおっしゃいましたねお名は」
 といった。この「なんとかおっしゃいましたね」という言葉が、名もないものをあわれんで見てやるという腹を充分に見せていた。今まで事務長の前で、珍しく受け身になっていた葉子は、この言葉を聞くと、強い衝動を受けたようになってわれに返った。どういう態度で返事をしてやろうかという事が、いちばんに頭の中で二十日鼠《はつかねずみ》のようにはげしく働いたが、葉子はすぐ腹を決めてひどく下手《したで》に尋常に出た。「あ」と驚いたような言葉を投げておいて、丁寧に低くつむりを下げながら、
 「こんな所まで……恐れ入ります。わたし早月葉《さつきよう》と申しますが、旅には不慣れでおりますのにひとり旅でございますから……」
 といってひとみを稲妻のように田川に移して、
 「御迷惑ではこざいましょうが何分よろしく願います」
 とまたつむりを下げた。田川はその言葉の終わるのを待ち兼ねたように引き取って、
 「何不慣れはわたしの妻も同様ですよ。 何しろこの船の中には女は二人《ふたり》ぎりだからお互いです」
 とあまりなめらかにいってのけたので、妻の前でもはばかるように今度は態度を改めながら事務長に向かって、
 「チャイニース・ステアレージには何人《なんにん》ほどいますか日本の女は」
 と問いかけた。事務長は例の塩から声で
 「さあ、まだ帳簿もろくろく整理して見ませんから、しっかり[#「しっかり」に傍点]とはわかり兼ねますが、何しろこのごろはだいぶふえました。三四十人もいますか。奥さんここが医務室です。何しろ九月といえば旧の二八月の八月ですから、太平洋のほうは暴《し》ける事もありますんだ。たまにはここにも御用ができますぞ。ちょっと船医も御紹介しておきますで」
 「まあそんなに荒れますか」
 と田川夫人は実際恐れたらしく、葉子を顧みながら少し色をかえた。事務長は事もなげに、
 「暴《し》けますんだずいぶん」
 と今度は葉子のほうをまともに見やってほほえみながら、おりから部屋《へや》を出て来た興録《こうろく》という船医を三人に引き合わせた。
 田川夫妻を見送ってから葉子は自分の部屋にはいった。さらぬだにどこかじめじめするような船室《カビン》には、きょうの雨のために蒸すような空気がこもっていて、汽船特有な西洋臭いにおいがことに強く鼻についた。帯の下になった葉子の胸から背にかけたあたりは汗がじんわりにじみ出たらしく、むし[#「むし」に傍点]むしするような不愉快を感ずるので、狭苦しい寝台《バース》を取りつけたり、洗面台を据えたりしてあるその間に、窮屈に積み重ねられた小荷物を見回しながら、帯を解き始めた。化粧鏡の付いた箪笥《たんす》の上には、果物《くだもの》のかごが一つと花束が二つ載せてあった。葉子は襟前《えりまえ》をくつろげながら、だれからよこしたものかとその花束の一つを取り上げると、そのそばから厚い紙切れのようなものが出て来た。手に取って見ると、それは手札形の写真だった。まだ女学校に通っているらしい、髪を束髪《そくはつ》にした娘の半身像で、その裏には「興録さま。取り残されたる千代《ちよ》より」としてあった。そんなものを興録がしまい忘れるはずがない。わざと忘れたふうに見せて、葉子の心に好奇心なり軽い嫉妬《しっと》なりをあおり立てようとする、あまり手もとの見えすいたからくり[#「からくり」に傍点]だと思うと、葉子はさげすんだ心持ちで、犬にでもするようにぽい[#「ぽい」に傍点]とそれを床の上にほうりなげた。一人《ひとり》の旅の婦人に対して船の中の男の心がどういうふうに動いているかをその写真一枚が語り貌《がお》だった、葉子はなんという事なしに小さな皮肉な笑いを口びるの所に浮かべていた。
 寝台の下に押し込んである平べったいトランクを引き出して、その中から浴衣《ゆかた》を取り出していると、ノックもせずに突然戸をあけたものがあった。葉子は思わず羞恥《しゅうち》から顔を赤らめて、引き出した派手《はで》な浴衣を楯《たて》に、しだらなく脱ぎかけた長襦袢《ながじゅばん》の姿をかくまいながら立ち上がって振り返って見ると、それは船医だった。はなやかな下着を浴衣の所々からのぞかせて、帯もなくほっそりと途方に暮れたように身を斜《しゃ》にして立った葉子の姿は、男の目にはほしいままな刺激だった。懇意ずくらしく戸もたたかなかった興録もさすがにどぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]して、はいろうにも出ようにも所在に窮して、閾《しきい》に片足を踏み入れたまま当惑そうに立っていた。
 「飛んだふうをしていまして御免くださいまし。さ、おはいり遊ばせ。なんぞ御用でもいらっしゃいましたの」
 と葉子は笑いかまけたようにいった。興録はいよいよ度を失いながら、
 「いゝえ何、今でなくってもいいのですが、元のお部屋のお枕《まくら》の下にこの手紙が残っていましたのを、ボーイが届けて来ましたんで、早くさし上げておこうと思って実は何したんでしたが……」
 といいながら衣嚢《かくし》から二通の手紙を取り出した。手早く受け取って見ると、一つは古藤が木村にあてたもの、一つは葉子にあてたものだった。興録はそれを手渡すと、一種の意味ありげな笑いを目だけに浮かべて、顔だけはいかにももっともらしく葉子を見やっていた。自分のした事を葉子もしたと興録は思っているに違いない。葉子はそう推量すると、かの娘の写真を床の上から拾い上げた。そしてわざと裏を向けながら見向きもしないで、
 「こんなものがここにも落ちておりましたの。お妹さんでいらっしゃいますか。おきれいですこと」
 といいながらそれをつき出した。
 興録は何かいいわけのような事をいって部屋《へや》を出て行った。と思うとしばらくして医務室のほうから事務長のらしい大きな笑い声が聞こえて来た。それを聞くと、事務長はまだそこにいたかと、葉子はわれにもなくはっ[#「はっ」に傍点]となって、思わず着かえかけた着物の衣紋《えもん》に左手をかけたまま、うつむきかげんになって横目をつかいながら耳をそばだてた。破裂するような事務長の笑い声がまた聞こえて来た。そして医務室の戸をさっ[#「さっ」に傍点]とあけたらしく、声が急に一倍大きくなって、
 「Devil take it! No tame creature then,eh?」と乱暴にいう声が聞こえたが、それとともにマッチをする音がして、やがて葉巻《はまき》をくわえたままの口ごもりのする言葉で、
 「もうじき検疫《けんえき》船だ。準備はいいだろうな」
 といい残したまま事務長は船医の返事も待たずに行ってしまったらしかった。かすかなにおいが葉子の部屋にも通《かよ》って来た。
 葉子は聞き耳をたてながらうなだれていた顔を上げると、正面をきって何という事なしに微笑をもらした。そしてすぐぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]としてあたりを見回したが、われに返って自分|一人《ひとり》きりなのに安堵《あんど》して、いそいそと着物を着かえ始めた。

    一一

 絵島丸が横浜を抜錨《ばつびょう》してからもう三日《みっか》たった。東京湾を出抜けると、黒潮に乗って、金華山《きんかざん》沖あたりからは航路を東北に向けて、まっしぐらに緯度を上《のぼ》って行くので、気温は二日《ふつか》目あたりから目立って涼しくなって行った。陸の影はいつのまにか船のどの舷《げん》からもながめる事はできなくなっていた。背羽根の灰色な腹の白い海鳥が、時々思い出したようにさびしい声でなきながら、船の周囲を群れ飛ぶほかには、生き物の影とては見る事もできないようになっていた。重い冷たい潮霧《ガス》が野火《のび》の煙のように濛々《もうもう》と南に走って、それが秋らしい狭霧《さぎり》となって、船体を包むかと思うと、たちまちからっ[#「からっ」に傍点]と晴れた青空を船に残して消えて行ったりした。格別の風もないのに海面は色濃く波打ち騒いだ。三日目からは船の中に盛んにスティームが通り始めた。
 葉子はこの三日というもの、一度も食堂に出ずに船室にばかり閉じこもっていた。船に酔ったからではない。始めて遠い航海を試みる葉子にしては、それが不思議なくらいたやすい旅だった。ふだん以上に食欲さえ増していた。神経に強い刺激が与えられて、とかく鬱結《うっけつ》しやすかった血液も濃く重たいなりにもなめらかに血管の中を循環し、海から来る一種の力がからだのすみずみまで行きわたって、うずうずするほどな活力を感じさせた。もらし所のないその活気が運動もせずにいる葉子のからだから心に伝わって、一種の悒鬱《ゆううつ》に変わるようにさえ思えた。
 葉子はそれでも船室を出ようとはしなかった。生まれてから始めて孤独に身を置いたような彼女は、子供のようにそれが楽しみだ[#「た」?、96−8]かったし、また船中で顔見知りのだれかれができる前に、これまでの事、これからの事を心にしめて考えてもみたいとも思った。しかし葉子が三日の間船室に引きこもり続けた心持ちには、もう少し違ったものもあった。葉子は自分が船客たちから激しい好奇の目で見られようとしているのを知っていた。立役《たてやく》は幕明きから舞台に出ているものではない。観客が待ちに待って、待ちくたぶれそうになった時分に、しずしずと乗り出して、舞台の空気を思うさま動かさねばならぬのだ。葉子の胸の中にはこんなずるがしこいいたずらな心も潜んでいたのだ。
 三日目の朝電燈が百合《ゆり》の花のしぼむように消えるころ葉子はふと深い眠りから蒸し暑さを覚えて目をさました。スティームの通って来るラディエターから、真空になった管の中に蒸汽の冷えたしたたりが落ちて立てる激しい響きが聞こえて、部屋《へや》の中
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