押しつぶして理屈一方に固まろうとは思いません。それほど僕は道学者ではないつもりです。それだからといって、今のままのあなたでは、僕にはあなたを敬親する気は起こりません。木村君の妻としてあなたを敬親したいから、僕はあえてこんな事を書きました。そういう時が来るようにしてほしいのです。
木村君の事を――あなたを熱愛してあなたのみに希望をかけている木村君の事を考えると僕はこれだけの事を書かずにはいられなくなります。
古藤義一[#行末より三字上げ]
木村葉子様」
[#引用文ここまで]
それは葉子に取ってはほんとうの子供っぽい言葉としか響かなかった。しかし古藤は妙に葉子には苦手《にがて》だった。今も古藤の手紙を読んで見ると、ばかばかしい事がいわれているとは思いながらも、いちばん大事な急所を偶然のようにしっかり[#「しっかり」に傍点]捕えているようにも感じられた。ほんとうにこんな事をしていると、子供と見くびっている古藤にもあわれまれるはめ[#「はめ」に傍点]になりそうな気がしてならなかった。葉子はなんという事なく悒鬱《ゆううつ》になって古藤の手紙を巻きおさめもせず膝《ひざ》の上に置いたまま目をすえて、じっ[#「じっ」に傍点]と考えるともなく考えた。
それにしても、新しい教育を受け、新しい思想を好み、世事にうといだけに、世の中の習俗からも飛び離れて自由でありげに見える古藤さえが、葉子が今立っている崕《がけ》のきわから先には、葉子が足を踏み出すのを憎み恐れる様子を明らかに見せているのだ。結婚というものが一人《ひとり》の女に取って、どれほど生活という実際問題と結び付き、女がどれほどその束縛の下に悩んでいるかを考えてみる事さえしようとはしないのだ。そう葉子は思ってもみた。
これから行こうとする米国という土地の生活も葉子はひとりでにいろいろと想像しないではいられなかった。米国の人たちはどんなふうに自分を迎え入れようとはするだろう。とにかく今までの狭い悩ましい過去と縁を切って、何の関《かかわ》りもない社会の中に乗り込むのはおもしろい。和服よりもはるかに洋服に適した葉子は、そこの交際社会でも風俗では米国人を笑わせない事ができる。歓楽でも哀傷でもしっくり[#「しっくり」に傍点]と実生活の中に織り込まれているような生活がそこにはあるに違いない。女のチャームというものが、習慣的な絆《きずな》から解き放されて、その力だけに働く事のできる生活がそこにはあるに違いない。才能と力量さえあれば女でも男の手を借りずに自分をまわりの人に認めさす事のできる生活がそこにはあるに違いない。女でも胸を張って存分呼吸のできる生活がそこにはあるに違いない。少なくとも交際社会のどこかではそんな生活が女に許されているに違いない。葉子はそんな事を空想するとむず[#「むず」に傍点]むずするほど快活になった。そんな心持ちで古藤の言葉などを考えてみると、まるで老人の繰り言のようにしか見えなかった。葉子は長い黙想の中から活々《いきいき》と立ち上がった。そして化粧をすますために鏡のほうに近づいた。
木村を良人《おっと》とするのになんの屈託《くったく》があろう。木村が自分の良人《おっと》であるのは、自分が木村の妻であるというほどに軽い事だ。木村という仮面……葉子は鏡を見ながらそう思ってほほえんだ。そして乱れかかる額ぎわの髪を、振り仰いで後ろになでつけたり、両方の鬢《びん》を器用にかき上げたりして、良工が細工物でもするように楽しみながら元気よく朝化粧を終えた。ぬれた手ぬぐいで、鏡に近づけた目のまわりの白粉《おしろい》をぬぐい終わると、口びるを開いて美しくそろった歯並みをながめ、両方の手の指を壺《つぼ》の口のように一所《ひとところ》に集めて爪《つめ》の掃除《そうじ》が行き届いているか確かめた。見返ると船に乗る時着て来た単衣《ひとえ》のじみな着物は、世捨て人のようにだらり[#「だらり」に傍点]と寂しく部屋《へや》のすみの帽子かけにかかったままになっていた。葉子は派手《はで》な袷《あわせ》をトランクの中から取り出して寝衣《ねまき》と着かえながら、それに目をやると、肩にしっかり[#「しっかり」に傍点]としがみ付いて、泣きおめいた彼《か》の狂気じみた若者の事を思った。と、すぐそのそばから若者を小わきにかかえた事務長の姿が思い出された。小雨の中を、外套《がいとう》も着ずに、小荷物でも運んで行ったように若者を桟橋の上におろして、ちょっと五十川《いそがわ》女史に挨拶《あいさつ》して船から投げた綱にすがるや否や、静かに岸から離れてゆく船の甲板の上に軽々と上がって来たその姿が、葉子の心をくすぐるように楽しませて思い出された。
夜はいつのまにか明け離れていた。眼窓《めまど》の外は元のままに灰色はしているが、活々《いきいき》とした光が添い加わって、甲板の上を毎朝規則正しく散歩する白髪の米人とその娘との足音がこつ[#「こつ」に傍点]こつ快活らしく聞こえていた。化粧をすました葉子は長椅子《ながいす》にゆっくり腰をかけて、両足をまっすぐにそろえて長々と延ばしたまま、うっとり[#「うっとり」に傍点]と思うともなく事務長の事を思っていた。
その時突然ノックをしてボーイがコーヒーを持ってはいって来た。葉子は何か悪い所でも見つけられたようにちょっとぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として、延ばしていた足の膝《ひざ》を立てた。ボーイはいつものように薄笑いをしてちょっと頭を下げて銀色の盆を畳椅子《たたみいす》の上においた。そしてきょうも食事はやはり船室に運ぼうかと尋ねた。
「今晩からは食堂にしてください」
葉子はうれしい事でもいって聞かせるようにこういった。ボーイはまじめくさって「はい」といったが、ちらりと葉子を上目で見て、急ぐように部屋《へや》を出た。葉子はボーイが部屋《へや》を出てどんなふうをしているかがはっきり[#「はっきり」に傍点]見えるようだった。ボーイはすぐににこ[#「にこ」に傍点]にこと不思議な笑いをもらしながらケーク・ウォークの足つきで食堂のほうに帰って行ったに違いない。ほどもなく、
「え、いよいよ御来迎《ごらいごう》?」
「来たね」
というような野卑な言葉が、ボーイらしい軽薄な調子で声高《こわだか》に取りかわされるのを葉子は聞いた。
葉子はそんな事を耳にしながらやはり事務長の事を思っていた。「三日も食堂に出ないで閉じこもっているのに、なんという事務長だろう、一ぺんも見舞いに来ないとはあんまりひどい」こんな事を思っていた。そしてその一方では縁もゆかりもない馬のようにただ頑丈《がんじょう》な一人《ひとり》の男がなんでこう思い出されるのだろうと思っていた。
葉子は軽いため息をついて何げなく立ち上がった。そしてまた長椅子《ながいす》に腰かける時には棚《たな》の上から事務長の名刺を持って来てながめていた。「日本郵船会社絵島丸事務長勲六等倉地三吉」と明朝《ミンチョウ》ではっきり[#「はっきり」に傍点]書いてある。葉子は片手でコーヒーをすすりながら、名刺を裏返してその裏をながめた。そしてまっ白なその裏に何か長い文句でも書いであるかのように、二重になる豊かな顎《あご》を襟《えり》の間に落として、少し眉《まゆ》をひそめながら、長い間まじろぎもせず見つめていた。
一二
その日の夕方、葉子は船に来てから始めて食堂に出た。着物は思いきって地味《じみ》なくすんだのを選んだけれども、顔だけは存分に若くつくっていた。二十《はたち》を越すや越さずに見える、目の大きな、沈んだ表情の彼女の襟の藍鼠《あいねずみ》は、なんとなく見る人の心を痛くさせた。細長い食卓の一端に、カップ・ボードを後ろにして座を占めた事務長の右手には田川夫人がいて、その向かいが田川博士、葉子の席は博士のすぐ隣に取ってあった。そのほかの船客も大概はすでに卓に向かっていた。葉子の足音が聞こえると、いち早く目くばせをし合ったのはボーイ仲間で、その次にひどく落ち付かぬ様子をし出したのは事務長と向かい合って食卓の他の一端にいた鬚《ひげ》の白いアメリカ人の船長であった。あわてて席を立って、右手にナプキンを下げながら、自分の前を葉子に通らせて、顔をまっ赤《か》にして座に返った。葉子はしとやかに人々の物数奇《ものずき》らしい視線を受け流しながら、ぐるっ[#「ぐるっ」に傍点]と食卓を回って自分の席まで行くと、田川|博士《はかせ》はぬすむように夫人の顔をちょっとうかがっておいて、肥《ふと》ったからだをよけるようにして葉子を自分の隣にすわらせた。
すわりずまいをただしている間、たくさんの注視の中にも、葉子は田川夫人の冷たいひとみの光を浴びているのを心地《ここち》悪いほどに感じた。やがてきちん[#「きちん」に傍点]とつつましく正面を向いて腰かけて、ナプキンを取り上げながら、まず第一に田川夫人のほうに目をやってそっと挨拶《あいさつ》すると、今までの角々《かどかど》しい目にもさすがに申しわけほどの笑《え》みを見せて、夫人が何かいおうとした瞬間、その時までぎごちなく話を途切らしていた田川博士も事務長のほうを向いて何かいおうとしたところであったので、両方の言葉が気まずくぶつかりあって、夫婦は思わず同時に顔を見合わせた。一座の人々も、日本人といわず外国人といわず、葉子に集めていたひとみを田川夫妻のほうに向けた。「失礼」といってひかえた博士に夫人はちょっと頭を下げておいて、みんなに聞こえるほどはっきり澄んだ声で、
「とんと食堂においでがなかったので、お案じ申しましたの、船にはお困りですか」
といった。さすがに世慣れて才走ったその言葉は、人の上に立ちつけた重みを見せた。葉子はにこやかに黙ってうなずきながら、位を一段落として会釈するのをそう不快には思わぬくらいだった。二人《ふたり》の間の挨拶《あいさつ》はそれなりで途切れてしまったので、田川|博士《はかせ》はおもむろに事務長に向かってし続けていた話の糸目をつなごうとした。
「それから……その……」
しかし話の糸口は思うように出て来なかった。事もなげに落ち付いた様子に見える博士の心の中に、軽い混乱が起こっているのを、葉子はすぐ見て取った。思いどおりに一座の気分を動揺させる事ができるという自信が裏書きされたように葉子は思ってそっと満足を感じていた。そしてボーイ長のさしずでボーイらが手器用《てぎよう》に運んで来たポタージュをすすりながら、田川博士のほうの話に耳を立てた。
葉子が食堂に現われて自分の視界にはいってくると、臆面《おくめん》もなくじっ[#「じっ」に傍点]と目を定めてその顔を見やった後に、無頓着《むとんじゃく》にスプーンを動かしながら、時々食卓の客を見回して気を配っていた事務長は、下くちびるを返して鬚《ひげ》の先を吸いながら、塩さびのした太い声で、
「それからモンロー主義の本体は」
と話の糸目を引っぱり出しておいて、まともに博士を打ち見やった。博士は少し面伏《おもぶ》せな様子で、
「そう、その話でしたな。モンロー主義もその主張は初めのうちは、北米の独立諸州に対してヨーロッパの干渉を拒むというだけのものであったのです。ところがその政策の内容は年と共にだんだん変わっている。モンローの宣言は立派に文字になって残っているけれども、法律というわけではなし、文章も融通《ゆうずう》がきくようにできているので、取りようによっては、どうにでも伸縮する事ができるのです。マッキンレー氏などはずいぶん極端にその意味を拡張しているらしい。もっともこれにはクリーブランドという人の先例もあるし、マッキンレー氏の下にはもう一人《ひとり》有力な黒幕があるはずだ。どうです斎藤《さいとう》君」
と二三人おいた斜向《はすか》いの若い男を顧みた。斎藤と呼ばれた、ワシントン公使館赴任の外交官補は、まっ赤《か》になって、今まで葉子に向けていた目を大急ぎで博士のほうにそらして見たが、質問の要領をはっきり捕えそこねて、さらに赤くなって術ない身ぶりをした。こ
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