り口の繰り戸を古藤が勢いよくあけるのを待って、中にはいろうとして、八分通りつまった両側の乗客に稲妻《いなずま》のように鋭く目を走らしたが、左側の中央近く新聞を見入った、やせた中年の男に視線がとまると、はっ[#「はっ」に傍点]と立ちすくむほど驚いた。しかしその驚きはまたたく暇もないうちに、顔からも足からも消えうせて、葉子は悪《わる》びれもせず、取りすましもせず、自信ある女優が喜劇の舞台にでも現われるように、軽い微笑を右の頬《ほお》だけに浮かべながら、古藤に続いて入り口に近い右側の空席に腰をおろすと、あでやかに青年を見返りながら、小指をなんともいえないよい形に折り曲げた左手で、鬢《びん》の後《おく》れ毛《げ》をかきなでるついでに、地味《じみ》に装って来た黒のリボンにさわってみた。青年の前に座を取っていた四十三四の脂《あぶら》ぎった商人|体《てい》の男は、あたふた[#「あたふた」に傍点]と立ち上がって自分の後ろのシェードをおろして、おりふし横ざしに葉子に照りつける朝の光線をさえぎった。
 紺の飛白《かすり》に書生下駄《しょせいげた》をつっかけた青年に対して、素性《すじょう》が知れぬほど顔にも
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